平賀源内は江戸時代中頃に活躍した人物です。
本草学者、蘭学者、医者、戯作者、発明家などの多彩な分野で活躍しました。
発明家として、日本初となる静電気発生装置エレキテルを修理、完成させ、火浣布などの開発を行います。
また土用の丑の日にうなぎを食べるという習慣は平賀源内が発祥という説などがあります。
そんな平賀源内の生涯、死因、エレキテルなどの発明品、土用の丑の日について解説していきます。
平賀源内の生い立ち
平賀源内は享保13年(1728)現在の香川県さぬき市志度にあたる讃岐国寒川郡志度浦に誕生しました。
父・白石茂左衛門、母・山下氏の娘から三男として誕生した平賀源内には多数の兄弟がいたとされています。
平賀源内は11歳の時に、掛け軸に工夫をしたからくり掛け軸である「お神酒天神」を作成したとされ、13歳になると藩医の下で本草学、儒学を学びました。
また俳諧なども行っていたとされています。
寛延元年(1748)父・白石茂左衛門が亡くなると、21歳の平賀源内は家督を継ぎ、藩の蔵番となりました。
宝暦2年(1752)頃、平賀源内が24歳の頃には、1年ほど長崎で本草学とオランダ語、医学、油絵を学びます。
その後、長崎から戻った平賀源内は藩の蔵番であったにも関わらず、妹に婿養子を迎えさせ、家督を放棄し勉学に励みました。
本草学、漢学を学ぶ
家督を放棄した平賀源内はその後、京都、大阪に向かいます。
宝暦6年(1756)になると、江戸に向かい本草学者田村元雄に弟子入りし本格的に本草学を学び始めました。
またこれだけではなく、漢学を学ぶために林家にも入門します。
2回目となる、長崎の遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を習得し、宝暦11年(1761)になると伊豆国で鉱床を発見しました。
奉公構を受ける
宝暦9年(1759)高田藩の家臣となるも、宝暦11年(1761)にはこの職を辞職しています。
たったの2年で仕事を辞めてしまったため、再雇用を禁止する奉公構を受け、今後一切、仕事に就くことを禁止されてしまいます。
「物類品隲」を刊行
宝暦12年(1762)これまでに平賀源内は物産博覧会を行っていましたが、5回目の開催となる東都薬品会が江戸の湯島で行われました。
この頃になると、平賀源内の名前は江戸にも知れ渡っていたとされ、蘭学者の杉田玄白や医者・本草学者・蘭学者であった中川淳庵と交流していた記録が残されます。
宝暦13年(1763)東都薬品会の出品物の解説書である「物類品隲」を刊行します。
この頃、オランダ博物学にも興味を持っていましたが、オランダ語を読めなかったため通訳を通して読解していたとされています。
また談義本の類を執筆するなどの文芸活動も行っていました。
鉱山開発に努める
明和3年(1766)武蔵川越藩の秋元凉朝の依頼で現在の秩父市大滝にある中津川で鉱山開発を行い、安永2年(1773)には出羽秋田藩の佐竹義敦に依頼され鉱山開発の指導を行いました。
エレキテルの修理、完成
安永5年(1776)平賀源内が48歳の頃、7年前に長崎で手に入れた静電気発生機であるエレキテルを修理、完成させます。
このエレキテルとは、もともとヨーロッパで電気治療のために使用されていた医療機器です。
エレキテルはオランダを経由して、長崎にもたらされました。
当時、平賀源内はエレキテルの原理を理解していませんでしたが試行錯誤の末、完成させることができました。
平賀源内の最期
3年後の安永8年(1779)夏、橋本町の邸へ移った平賀源内は大名屋敷の修理を依頼されます。
しかし、この大名屋敷の修理を行った際、平賀源内は酔っており、修理計画書を盗まれたと勘違いした平賀源内は大工の棟梁2人を殺傷する事件を起こしてしまします。
その後、この事件によって平賀源内は投獄され12月18日に監獄の中で亡くなりました。
死因は破傷風とされ、平賀源内は52歳であったとされています。
平賀源内の発明品
当時、日本は鎖国の時代であり全くエレキテルについての情報がない中で、エレキテルの原理を知らなかった平賀源内は試行錯誤しながら独自の改良方法を生み出し、エレキテルを修理、完成させました。
エレキテルを修理、完成させただけではなくヨーロッパ製の万歩計を改良した量程器、燃えない布である火浣布、水平を示す平線儀、寒暖計などの開発を行いました。
土用の丑の日
土用の丑の日に、うなぎを食べるという習慣は平賀源内が発祥とされています。
そもそもうなぎは、産卵期が冬であることから産卵期を間近に控えた秋から冬に食べる方が、脂がのって美味しいとされています。
またうなぎの蒲焼きは濃い味付けのため、夏になるとあまり売れませんでした。
夏にうなぎが売れないことに嘆いでいたうなぎ屋は、多彩な分野で活躍する平賀源内に、夏でもうなぎを食べてもらうにはどうすればいいかと問います。
すると、平賀源内は丑の日は「う」のつく食べ物を食べるのが縁起が良い。という語呂合わせのアドバイスをしました。
こうして、平賀源内からアドバイスを受けたうなぎ屋は、店の前に「本日、土用丑の日」と貼り出すと、客がたくさん集まり、うなぎ屋は大繁盛した。ということから、土用の丑の日にうなぎを食べる習慣を生み出したのは、平賀源内とされるようになりました。
その他にも、安永4年(1775)音羽屋多吉の清水餅の宣伝文句を考え報酬を得ていることから、コピーライターの元祖と言われています。
最後に
発明家のみならず、キャッチコピーの制作や文芸活動なども行っていた平賀源内は、多彩な分野で活躍した人物でした。
万歩計や火浣布、平線儀などの平賀源内の発明品は現代においても大きな影響を残し、私たちの生活をより便利にさせました。