2019年大河ドラマ「いだてん」に登場する平沢和重は実在した人物です。
駐米日本大使秘書官、ニューヨーク領事を経て、NHK解説委員となった平沢和重は昭和34年(1959)5月、ミュンヘンで行われたIOC総会において1964年東京オリンピック開催に向けてのスピーチを行いました。
もともとスピーチの持ち時間は1時間であったとされていますが、平沢和重は用意されていた原稿を書き直し15分のスピーチを行い、誘致に尽力しました。
そんな平沢和重の生涯やオリンピックでの逸話、スピーチについて解説していきます。
平沢和重の生い立ち
平沢和重は明治42年(1909)9月14日、香川県丸亀市で誕生しました。
昭和10年(1935)に東京帝国大学を卒業すると、駐米日本大使秘書官となりワシントンの日本大使館に赴任します。
その後、日本に帰国すると本省アメリカ局事務官に就任しました。
昭和16年(1941)にニューヨーク領事となり再び、アメリカへと渡りますが、日米開戦が勃発したため同年に日本に帰国します。
帰国後、平沢和重は外務省を辞任し、昭和24年(1949)からNHK解説委員として24年間活躍することとなります。
嘉納治五郎との出会い
外交官をしていた昭和13年(1938)4月、平沢和重はバンクーバーから横浜に向かう氷川丸に乗船していた際、同じ船の中でIOC委員の嘉納治五郎と出会います。
IOC委員であった嘉納治五郎は1940年東京オリンピック開催に向けカイロ(エジプト)で開かれていたIOC総会に出席し、帰国のために氷川丸に乗船していました。
同じ船に乗り合わせていた2人は交流を深めましたが、嘉納治五郎はこの船旅の最中に肺炎を患い、5月4日に亡くなります。
そのため平沢和重は嘉納治五郎の最後を船内で看取ることとなりました。
NHK解説委員として
外交官であった平沢和重は外務省を辞任すると、昭和24年(1949)からNHK解説委員となります。
NHK解説委員となった平沢和重は解説委員としてテレビ番組にも出演するようになりました。
1964年東京オリンピック開催に反対
この頃、日本は1964年東京オリンピック開催の誘致に力を注いでいました。
しかし、平沢和重は日本が1964年東京オリンピック開催の誘致に力を注ぐ中、日本でのオリンピック開催に反対意見を唱えます。
当時日本は第二次世界大戦において敗戦国であり、日本の復興が急がれていた時代でもありました。
そのような状況であったからこそ、平沢和重は東京でオリンピックを開催するのは、まだ早いと、反対意見を唱えたのです。
代役としてスピーチを行う
そんな中、昭和34年(1959)5月、ミュンヘンでIOC総会が開かれます。
このIOC総会で日本は1964年東京オリンピック開催立候補趣意説明を行わなければいけませんでした。
そのため平沢和重の友人である外交官参事官の北原秀雄がIOC総会で1964年東京オリンピック開催立候補趣意説明を行うことが計画されていましたが、直前になり北原秀雄が足を骨折し渡米することができなくなったため、東京でのオリンピック開催を反対していた平沢和重が急遽代役として渡米し、招致活動に協力することとなりました。
平沢和重を代役として選んだのは、当時の東京都知事・東龍太郎、日本オリンピック委員会常任委員・岩田幸彰、日本オリンピック委員会委員長・竹田恒徳であったとされ、もともと外交官で英語を話せたこと、またアジア初のIOC委員として有名な嘉納治五郎の最期を看取った人物であったことから、代役として選ばれたとされています。
オリンピック誘致に成功
こうして東京でのオリンピック開催に対し反対意見を持っていた平沢和重は代役としてスピーチを行うこととなりました。
スピーチの持ち時間は1時間と定められていましたが、平沢和重は原稿を書き直し15分のスピーチを行ったとされています。
スピーチ時間を短縮したのには理由があり、様々な国の長いスピーチを聞いている委員たちは疲れた表情をしていたため、委員たちに配慮し、15分という短いスピーチに変更したのです。
1時間から15分に短縮された平沢和重のスピーチはIOC委員たちの心を動かすこととなり、見事、東京でのオリンピック誘致に成功することとなりました。
平沢和重の最期
こうして見事、1964年東京オリンピックの誘致を成功させた平沢和重は、昭和52年(1977)3月7日、67歳で癌によって亡くなりました。
まとめ
もともと1964年東京オリンピック開催を反対していた平沢和重は急遽代役として、1964年東京オリンピック開催立候補のスピーチを任されることとなりました。
反対意見を唱えていたものの、1時間から15分に短縮された平沢和重のスピーチのおかげで、見事、東京オリンピックが開催されることとなりました。
1964年東京オリンピックは平沢和重のスピーチなしでは実現することはなかったといっても過言ではありません。