人見絹枝とは明治から昭和にかけて活躍した陸上競技選手です。
二階堂体操塾(現在の日本女子体育大学)に入学後、二階堂トクヨから体育の指導を受け、その後第3回岡山県女子体育大会にて三段跳で当時の世界新記録を打ち出しました。
その後も数々の陸上競技で日本新記録を打ち出し昭和3年(1928年)アムステルダムオリンピックに日本女子選手として初出場します。
このアムステルダムオリンピックでは800m走において見事銀メダルを獲得し、人見絹枝は日本人女性初のオリンピックメダリストとなりました。
そんな人見絹枝の生い立ちやオリンピックメダリストとなった経緯、また両性具有や性別について解説していきます。
人見絹江の生い立ち
人見絹枝は明治40年(1907年)1月1日、現在の岡山市南区福成で誕生しました。
大正2年(1913年)福浜村立福浜尋常高等小学校尋常科(現在の岡山市立福浜小学校)に入学、その後、大正9年(1920年)岡山県高等女学校(現在の岡山県立岡山操山高校)に入学します。
岡山県高等女学校在学時にはテニス選手として活躍していました。
大正12年(1923年)、陸上選手として第2回岡山県女子体育大会を果たすと、走幅跳で当時日本最高記録(非公式)を打ち出します。
二階堂体操塾に入塾
大正13年(1924年)人見絹枝は二階堂トクヨが塾長を務める二階堂体操塾(現在の日本女子体育大学)に入塾します。
二階堂トクヨから指導を受け、第3回岡山県女子体育大会に出場し三段跳で当時の世界最高を記録(現在非公認)、全日本選手権・陸上競技に出場し三段跳で10m38、やり投で26m37を記録するなど陸上選手として活躍をみせます。
二階堂体操塾を卒業
翌年の大正14年(1925年)二階堂体操塾を卒業すると、京都市立第一高等女学校(現在の京都市立堀川高校)に体操教師として赴任しましたが、二階堂トクヨからの体操の実技講師をしてほしいとの要請で台湾の各地を巡回します。
同年に帰国した人見絹枝はその後も、大阪体育協会主催第4回陸上競技選手権大会兼明治神宮競技大会近畿予選において50メートル競走で優勝、三段跳で世界最高記録(現在非公認)を更新するといった活躍をみせました。
大阪毎日新聞社に入社
大正15年(1926年)19歳の人見絹枝は大阪毎日新聞社の運動課に入社します。
入社後も東京・大阪朝日新聞社主催四大陸上競技大会第1回女子競技、第2回関東陸上競技選手権大会、大阪毎日新聞社後援第3回日本女子オリンピック大会に出場し数々の競技で優勝をはたします。
初めての海外遠征
同年8月、人見絹枝はアリス・ミリア主催の第2回国際女子競技大会(ヨーテボリ)に出場します。
当時、この大会に出場した日本人は人見絹枝ただ1人だけでした。
この大会で人見絹枝は走幅跳で世界新記録を打ち出し優勝、立ち幅跳びで優勝、また数々の競技で高得点を打ち出すなどの活躍を見せ、その活躍が称えられ国際女子スポーツ連盟の名誉賞を授与することとなります。
人見絹枝は自身初となるこの海外遠征で国外陸上競技の事情を知ることとなり、帰国後に記された著書の中には専属コーチの必要性や年間を通じてのトレーニングの重要性などが記されています。
日本人女性初のオリンピックメダリスト(銀メダル)となる
海外遠征から帰国した人見絹枝はその後も多くの陸上競技大会に出場し優勝を果たします。
昭和3年(1928年)、人見絹枝はアムステルダムオリンピックに出場します。
これまで日本人女性がオリンピックに出場したことはなく、人見絹枝が日本人女性初のオリンピック出場者となりました。
またこれまで女性は陸上競技に出場することは許されていませんでしたが、このアムステルダムオリンピックではこれまでなかった陸上競技女子種目が追加されることとなったとされています。
人見絹枝は陸上女子個人種目の100m、800m、円盤投、走高跳全てにエントリーし、そのうちの800m走で見事、日本人女性初のオリンピックメダリスト(銀メダル)となりました。
国際女子オリンピックに出場
アムステルダムオリンピック終了後、人見絹枝は競技者として各地に遠征、後輩の育成、大会にむけての費用工面などを行いながら数々の大会に出場します。
昭和4年(1929年)人見絹枝は国際女子オリンピックの出場候補15名と2週間の合宿を行い、その後、代表6名のうちの1人に選ばれます。
国際女子オリンピックに出場した人見絹枝は数々の競技に出場し、個人得点13点で2位となりました。
日本の冷たい反応
日本チームは国際女子オリンピックにおいて参加18ヶ国中4位という記録となりましたが、そのポイントのほとんどは人見絹枝によるものでした。
参加18ヶ国中4位という記録は決して悪いものではありません。
しかし、アムステルダムオリンピックに比べ結果が悪いことから日本人の反応は冷たく、帰国途中に新聞や手紙でその反応を知った人見絹枝や選手たちは深く傷ついたとされています。
人見絹枝の最期
日本に帰国した人見絹枝は、帰国直後は岡山の実家で過ごしていたものの翌日には東京に発ったとされています。
まだ体の疲れが癒えない中、人見絹枝は募金へのお礼や新聞社での仕事に励みました。
その後、国際女子オリンピックの翌年の昭和6年(1931年)3月25日、肋膜炎を患ったとされ阪大病院別館に入院し、治療に励みますが肺炎を併発し8月2日、乾酪性肺炎で24歳の若さで亡くなりました。
人見絹枝が亡くなった8月2日は、アムステルダムオリンピック800m決勝からちょうど3年後の日でした。
男性疑惑が持ちあがる
人見絹枝と検索すると両性具有や性別といった言葉が出てきます。
両性具有とは男性、女性の両方の性別的特徴を持ち、どちらかの性別として判断できない身体的特徴のことをさします。つまり、男性、女性両方の性質を持つということです。
2009年、南アフリカ代表の女性陸上競技選手キャスター・セメンヤ選手がベルリンで開催された世界選手権の800m走に出場し金メダルを獲得しました。
そんなキャスター・セメンヤ選手ですが、男性のようなルックスから大会以前から男性疑惑が報じられていました。
診断の結果、キャスター・セメンヤ選手は両性具有と診断されました。
しかし国際陸上競技連盟はキャスター・セメンヤ選手を女性と判断し、記録は認められます。
人見絹枝は二階堂体操塾に入塾した当時、身長約170cm、体重約56kgであったとされています。
キャスター・セメンヤ選手のように人見絹枝もまた男性に似た体格であったことから男性疑惑が持ちあがったと考えられます。
また人見絹枝が陸上競技に励んでいた当時、日本人女性が人前で太ももをさらすなどあってはならない、陸上競技は日本女性の個性を破壊するなど日本の女子陸上への偏見は厳しいものでありました。
女性の陸上競技の参加に対する偏見が厳しい時代の中で、人見絹枝が陸上競技に励んでいたこともまた、男性疑惑に繋がったと考えられています。
まとめ
人見絹枝は日本人女性初のオリンピックメダリストとなった人物でした。
現在放送中の大河ドラマ「いだてん」では女性ダンサーの菅原小春さんが人見絹枝を演じられています。