細川ガラシャ(明智玉子)は「本能寺の変」で織田信長を討った明智光秀の娘として有名な人物です。
成長した細川ガラシャの容姿は戦国最大の美女と言われるほど美人であったと言われています。
熱心なキリスト教徒であった細川ガラシャですが、壮絶な最期を遂げ、とても悲しい生涯でした。
美しいと注目されている辞世の句や現代の子孫などを含め、その細川ガラシャの悲しい生涯について解説していきます。
細川ガラシャ(明智玉子)の生い立ち
細川ガラシャは明智光秀の三女として1563年に誕生し、母は明智光秀の2番目の妻である妻木煕子(つまきひろこ)です。母、妻木煕子は美人であったことで知られています。
「ガラシャ」という名はキリスト教徒としての洗礼名であり、本名は「明智玉(玉子)」です。
美しく成長したガラシャは15歳の時に父である明智光秀と親交が深かった細川藤孝(ほそかわふじたか)の嫡男・細川忠興(ほそかわただおき)に嫁ぐことになりました。これは、明智光秀の主君であった織田信長のすすめと言われています。
細川忠興と細川ガラシャは美男美女でお似合いの夫婦であり、主君の織田信長にも「人形のようにかわいい夫婦」と言われていました。
子どもにも恵まれ夫婦仲もよかったのですが、嫁いでから4年経った1582年6月、事態は一変します。
「本能寺の変」で幽閉される
父、明智光秀が本能寺で織田信長を討った本能寺の変が起こります。これにより織田家の家臣であった羽柴秀吉が光秀と争い、光秀は破れました。
ガラシャは逆臣の娘となりましたが、夫である忠興は離縁することはせず、表面上は離縁したことにしてガラシャを丹後の国の味土野(みどの)へ幽閉しました。
これは忠興がガラシャを愛していたため、命を狙われないように隠したという行動でしょう。
幽閉生活は2年間に及び、ようやく羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の計らいで大阪の細川屋敷に戻ることができました。
キリスト教の教えに惹かれる
夫の忠興がキリシタン大名である高山右近から聞いたカトリックの話から、ガラシャはその教えに惹かれていきます。
洗礼を受け、この時の洗礼名が「ガラシャ」になりました。
この頃、豊臣秀吉の時代となり、キリスト教を広めることが禁止されていたため、ガラシャはキリシタンであるということを忠興にも隠しており、後にそれを知った忠興は激怒します。
離婚を考えるガラシャは宣教師に相談を持ち掛けますが、キリスト教は原則として離婚を認めていなことから、離婚しないようにガラシャを説得しました。
ガラシャの最期
秀吉の死後、天下統一を争う「関ケ原の戦い」が1600年に起こり、この年はガラシャにとって運命の年となるのです。
夫の忠興は徳川家康に従っていて「自分が不在の時に妻に危険が生じればまずを妻を殺し全員切腹せよ」という言葉を置いていきます。
西軍であった石田三成は細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしますがガラシャはそれを拒否しました。そのため、翌日、三成は細川屋敷を兵で囲み、実力行使をします。
ガラシャは屋敷内にいる侍女たちを逃亡させ、自分が人質に取られることで夫に迷いが生じてしまうのを避けるため死を決意しました。
自殺行為はキリスト教で禁止されているため家臣であった小笠原秀清に殺させ、屋敷に爆薬を仕掛けてから家臣たちも自害したのです。
38年という短い年でガラシャの生涯は幕を閉じることになりました。
ガラシャの死後
ガラシャの死は三成に衝撃を与え、この件以降、三成は諸大名の妻子を人質に取ることをやめたのです。
ガラシャの死後、神父であるグネッキ・ソルディ・オルガンティノは細川屋敷の焼け跡を訪れガラシャの骨を拾いキリシタン墓地に葬ったと言われています。
ガラシャが洗礼を受けて激怒していた忠興ですが、ガラシャの死を悲しみグネッキ・ソルディ・オルガンティノに依頼し、キリスト教式の葬儀に参列しました。
細川ガラシャの容姿
ガラシャは戦国最大の美女と言われる容姿でその美しさから夫の忠興には嫉妬心が芽生えます。
その嫉妬心からか、忠興はガラシャの美貌に見とれていた植木職人を手打ちにしたりしました。
また、美しい容姿のガラシャですが性格は男勝りで気性が荒い一面があったようです。
細川ガラシャの辞世の句
ガラシャの辞世の句には、とても美しい響きがあります。
この意味は、「花も人も散りどきを心得るからこそ美しく、花は花の美しさ、人は人の価値がある」ということになります。
気性が荒い面もあったガラシャですが、キリスト教に出会い謙虚になりました。
当時日本にいた宣教師によってガラシャの生涯が欧米まで語り継がれ、オペラにもなっています。
細川ガラシャの現代の子孫
ガラシャと忠興の間には5人の子どもがおり、その中の長男・細川忠隆の子孫が現代に存在します。
その子孫とは、政治評論家の細川隆元と、甥にあたる細川隆一郎です。
隆元氏は朝日新聞の記者を務めた後に衆議院議員を1期務め、政界を引退後は政治評論家となりました。
隆一郎氏はワイドショーやコメンテーターとして活躍もしました。