細川晴元は室町時代、第34代室町幕府管領として活躍した人物です。
父・細川澄元を討った宿敵・細川高国を破ると、家臣であった三好元長や一向一揆軍と対立しました。
その後、三好元長、一向一揆軍らと対立するも管領に就任し、幕政を任されることとなります。
最期は家臣である三好長慶と対立することとなり、幽閉先の普門寺城で亡くなりました。
そんな細川晴元の経歴や家臣・三好長慶との関係性、墓について解説いたします。
細川晴元の生い立ち
細川晴元は永正11年(1514年)、細川澄元と清泰院の長男として誕生します。
細川晴元が誕生した頃、父・細川澄元は、細川京兆家の家督を巡り同族の細川高国と争いを続けていました。
しかし、父・細川澄元は戦いに敗れ阿波国へと逃れていました。
父・細川澄元が亡くなり、家督を継ぐ
細川晴元が誕生した6年後の永正17(1520年)6月10日、阿波国へと逃れていた父・細川澄元が亡くなります。
これにより、長男であった細川晴元が7歳で家督を継ぐこととなりました。
細川高国との対立
細川晴元が当主となったころ、父・細川澄元を敗北に追いやった細川高国は第10代将軍・足利義稙と対立していました。
明応2年(1493年)第10代将軍・足利義稙は細川高国との戦いに負け、将軍職を奪われ幽閉されます。(明応の政変)
幽閉されていた第10代将軍・足利義稙でしたが脱出し、逃亡生活を送りながら将軍復帰を目指していました。
大内義興の協力を得た第10代将軍・足利義稙は永正5年(1508年)京都で将軍職に復帰するも再び京都から追放されます。
第10代将軍・足利義稙を追放した細川高国は第10代将軍・足利義稙に代わって足利義晴(第10代将軍・足利義稙の養子)を将軍に擁立し、事実上の天下人となっていました。
そのため、細川晴元は反撃の機会を失うこととなります。
細川高国方の内部分裂
反撃の機会を失われていた細川晴元でしたが、大永6年(1526年)7月13日、細川高国が重臣の香西元盛を殺害したため、香西元盛の兄である波多野稙通、柳本賢治らから細川高国は非難を受けることとなり、細川高国勢力は内部分裂を起こしました。
これをチャンスと見た細川晴元は13歳にして、三好元長に擁され、細川高国討伐に兵を挙げます。
同年には波多野稙通と合流しました。
足利義維を擁立
細川晴元と細川高国の戦いは細川氏の家督争いであるにも関わらず、細川高国は第12代将軍・義晴を擁立した管領(将軍に次ぐ最高職)という立場であったため、細川高国に兵をあげるということは朝廷に反抗する賊軍の扱いを受けてしまうという意味を持っていました。
賊軍の扱いを受けることによって、保身派の味方が離反を起こすと考えた細川晴元は、細川高国に対抗して第12代将軍・義晴の弟・足利義維を擁立しました。
桂川原の戦い
そして大永7年(1527年)2月12日、細川高国と戦うこととなります。
この戦いは桂川原の戦いと呼ばれ、細川晴元らの勝利に終わりました。
敗北した細川高国は、足利義晴を擁立したまま近江国へと追放されることとなります。
堺公方府を創設
細川晴元は和泉国堺を本拠とし、正式な将軍とならないものの足利義維を最高職とした「堺公方府」と呼ばれる擬似幕府を創設しました。
三好元長との対立
細川晴元の家臣・三好元長は桂川原の戦いで功績を残しており、ここまで細川晴元から高く評価されていました。
しかし、享禄2年(1529年)、同僚の柳本賢治・松井宗信ら、そして細川晴元と対立関係となり憤慨した三好元長は阿波国へと下向します。
これによって堺公方府の軍事力は低下してしまいます。
細川高国が再び挙兵
堺公方府の軍事力が低下すると、備前守護代の浦上村宗と結託した細川高国が再び挙兵しました。
細川高国の襲来に対し柳本賢治が挙兵しますが、享禄3年(1530年)、細川高国の刺客に暗殺され、勢いに乗った細川高国らは摂津国へと侵攻してきました。
享禄4年(1531年)になると、摂津国の大半が細川高国らによって制圧され、細川晴元らは窮地に立たされます。
大物崩れの戦い
堺公方府も細川高国の攻撃によって危機に直面しますが、柳本賢治、松井宗信らと対立していた三好元長と和睦したことによって軍事力は回復します。
3月になると、細川高国の攻撃に対し三好元長が挙兵、細川高国の攻撃を膠着化に持ち込みました。(中嶋の戦い)
6月になると、摂津大物で赤松政祐・細川晴元・三好元長の連合軍と細川高国・浦上村宗の連合軍の合戦が行われます。
この戦いは「大物崩れの戦い」「天王寺の戦い」などと呼ばれ、この戦いにおいて細川高国は細川高国・浦上村宗軍を壊滅させました。
宿敵・細川高国を討つ
戦い後、細川高国は逃亡しましたが摂津国尼崎で捕らえ、細川晴元は細川高国に対し尼崎の広徳寺で自害を命じます。
これによって細川晴元は父・細川澄元の仇を討ったのでした。
三好元長と再び対立
これまで権力者として立っていた細川高国を討った細川晴元は将軍・足利義晴とも和睦しました。
空席となっている管領の座に就こうと考えた細川晴元でしたが、三好元長と対立を起こしてしまいます。
共通の敵である細川高国を滅ぼしてから約2か月の間で、内部分裂が起きたのでした。
三好元長の敗死
享禄5年(1532年)、細川晴元は三好元長を排除すべく本願寺第10世法主・証如に一向一揆の蜂起を依頼します。
依頼を引き受けた一揆軍は一揆を起こし三好元長を攻撃、三好元長は堺で敗死しました。
また元々擁立していた足利義晴の弟・足利義維と不和になると、足利義維を阿波国へと追放しました。(飯盛城の戦い)
一向一揆軍との戦い
内部分裂を起こしたものの、反対派を排除した細川晴元は、蜂起したものの乱行を重ねる一向一揆軍の鎮圧に力を注ぎ、近江国の六角定頼、そして一向一揆軍の対立宗派である法華宗と協力し、山科本願寺を攻撃します。(山科本願寺の戦い)
山科本願寺焼亡後も、石山本願寺に移った一向一揆軍と戦いを続けましたが、天文2年(1533年)一向一揆軍の反撃にあい、細川晴元は堺から淡路国へと逃れます。
しかし、摂津池田城で復帰し立て直しを図ると天文4年(1535年)、一向一揆軍と和睦しました。(享禄・天文の乱)
三好長慶が家臣に
天文3年(1534年)には三好元長の嫡男・三好長慶とも和睦し、三好長慶は細川晴元の家臣となりました。
管領となる
天文5年(1536年)になると、対立していた亡き細川高国の弟・晴国を討ち、畿内を安定させます。
翌年の天文6年(1537年)には管領に就任し、幕政を任されることとなりました。
細川氏綱との対立
天文8年(1539年)家臣となった三好長慶が同族の三好政長と対立を起こします。
細川晴元は三好政長に肩入れしたため、三好長慶と対立しましたが、六角定頼の仲介によって三好長慶と和睦しました。
天文12年(1543年)亡き細川高国の養子・細川氏綱が細川晴元に対し挙兵します。
また天文14年(1545年)には細川高国派の上野元治・元全・国慶らが挙兵しました。
この反乱は三好長慶・政長らが鎮圧させましたが、天文15年(1546年)には再び細川氏綱が挙兵し、摂津国の大半を奪われました。
足利義晴、足利義輝との対立
同年9月にも上野国慶も再挙兵し京都を攻撃したため、細川晴元は丹波国へ逃亡します。
同年12月、将軍であった足利義晴は滞在先の近江国坂本で嫡男・菊童丸(後の足利義輝)に将軍職を譲りました。
この際、六角定頼が管領に任じられます。
管領であった細川晴元の代わりに六角定頼が管領の代行を行ったと考えられていましたが、実は管領の座はもともと空席であった、つまり細川晴元は管領に就任していたかったのではといった説があります。
やがて足利義晴とその嫡男・足利義輝は細川晴元と対立するようになります。
細川氏綱の反乱を鎮圧
一方、三好長慶の居城である摂津越水城にいた細川晴元は神呪寺へと移り、天文16年(1547年)、細川氏綱方に反撃を開始し摂津国を平定しました。
同年7月には足利義晴とその嫡男・足利義輝と和睦を結び、細川氏綱の反乱を鎮圧させました。
家臣・三好長慶と再び対立
しかし天文17年(1548年)5月6日、細川晴元はかつて細川氏綱に寝返った摂津国人・池田信正に対し、切腹を命じたことによって三好長慶と再び対立し、摂津国人衆から離反されます。
細川晴元と対立した三好長慶は細川氏綱方につき、同年10月、三好長慶は細川晴元に対し挙兵しました。
江口の戦い
摂津榎並城を三好長慶軍に包囲された細川晴元は江口の戦いで敗北します。
江口の戦いで三好政長・高畠長直といった多くの家臣を失った細川晴元は、三好長慶らの追撃を恐れ、将軍・足利義輝らとともに近江国坂本へと逃れました。
和睦を拒み出家する
現職の将軍である足利義輝や管領が不在となった京都では上洛した三好長慶と細川氏綱らが実権を握っていました。
坂本に逃亡していた細川晴元は天文19年(1550年)に足利義晴が亡くなると将軍・足利義輝を擁立し、香西元成や三好政勝らを率いて京都奪回を試みます。
しかし、京都奪還は失敗に終わりました。
将軍・足利義輝は三好長慶、細川氏綱と和睦を結び、上洛しますが、細川晴元は三好長慶と細川氏綱らと和睦せず、出家し、武田信豊を頼り若狭国へと向かいました。
北白川の戦い
天文22年(1553年)3月、足利義輝と三好長慶が対立を起こします。
7月、細川晴元は再び足利義輝と共に三好長慶と交戦することとなりました。
しかし、交戦の結果、義輝方の霊山城が三好軍によって落とされることとなり、細川晴元と足利義輝は近江国朽木へと逃れました。
三好長慶に対し対抗を続ける
永禄元年(1558年)細川晴元、足利義輝は上洛を図り、将軍山城で三好軍と交戦します。(北白川の戦い)
しかし、六角義賢の仲介で足利義輝と三好長慶が再び和睦します。
細川晴元は和睦に応じず、その後も三好長慶に対し敵対行動を続けることとなりました。
細川晴元の最期
永禄4年(1561年)隠居していた細川晴元は次男の細川晴之を当主とし、六角・畠山軍とともに三好長慶討伐にむけ挙兵させます。
しかし、三好軍の反撃にあい細川晴之は戦死します。
細川晴元は三好長慶と和睦することとなりましたが、摂津国の普門寺城に幽閉されることとなり、永禄6年(1563年)3月1日、幽閉されていた普門寺城で亡くなりました。
50歳で亡くなったとされています。
細川晴元の墓
細川晴元の墓は大阪府高槻市にある普門寺にあります。
まとめ
細川晴元は第34代室町幕府管領として活躍した人物でした。
父・細川澄元を討った宿敵・細川高国を破ると、家臣であった三好元長や一向一揆軍と対立します。
三好元長を破り、一向一揆軍を鎮圧させると管領の座に就任し、幕政を任されるようになりました。
しかし、その後も細川氏綱や家臣であった三好長慶と対立を起こし、最終的には三好長慶と和睦し普門寺城に幽閉されることとなります。
幽閉された細川晴元は普門寺城で最期を迎えました。
細川晴元は現在放送中の大河ドラマ「麒麟がくる」に重要な人物として登場しています。