紫式部とは?日記や清少納言との関係、百人一首や源氏物語についても解説!

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紫式部は平安時代中期の女性作家、歌人です。

正確な本名、誕生年などは分かってはいませんが、天禄元年(970 )から寛仁3年(1019 )に活躍した人物であると推測されています。

代表作には日本最古の長編小説で知られる有名な「源氏物語」、宮中での様子を記録した日記「紫式部日記」が残され、現代でも多くの方が読んだことがあるのではないでしょうか。

また紫式部は幼少期から晩年に至るまでに自ら詠んだ和歌を集めた「式部集」があり、「小倉百人一首」にも収録され、作家として、歌人としての功績を残しました。

紫式部のライバルとされているのが、紫式部同様に女作家として活躍した清少納言です。清少納言の代表作として有名な随筆「枕草子」が残されています。

そんな紫式部の生涯、紫式部日記、百人一首、源氏物語、また清少納言との関係性について解説していきます。

紫式部とは

紫式部の誕生年などは、まだあきらかにはされていませんが平安時代中期の天禄元年(970 )から寛仁3年(1019 )に活躍した人物であると推測されています。

藤原北家良門流の越後守、漢学者であった藤原為時を父として生れ、母は藤原為信の女で早く亡くなり、父の手で育てられました。

同母の兄弟として藤原惟規がいるとされていますが、紫式部と同様に誕生年が不明なためどちらが年長者かは定かではありません。また姉もいたとされています。

 

幼少期

紫式部の幼少期は、学者、漢詩人の父・藤原為時のもとで漢文や歌の教えを受けていました。

紫式部は兄弟である藤原惟規よりも漢籍の覚えが早く、父・藤原為時は紫式部が男であれば、と嘆いてたことが式部の日記「紫式部日記」に記されています。

 

藤原宣孝と結婚、「源氏物語」「紫式部日記」の執筆

長徳4年(998 )頃、紫式部は、40歳代で数人の妻、子のいる藤原宣孝と正室としてではありませんが結婚します。

翌年にはのちに大弐三位と呼ばれる娘が生まれましたが、長保3年(1001 )には夫・藤原定孝が急死し、短い夫婦生活を終えました。

この頃から「源氏物語」の執筆が始まったとされ、この執筆から紫式部の文才が周囲に認められ寛弘2年(1005 )12月、鷹司殿倫子(左大臣藤原道長室 )の要請で一条天皇中宮彰子に寛弘8年(1012 )頃まで女房兼家庭教師役として出仕します。

この頃に執筆されたのが「紫式部日記」です。

「紫式部日記」には中宮彰子に仕えていた時の宮中の様子や、紫式部の作品「源氏物語」の評判について、自らの人生観についてなどが書かれ、歴史的に価値のある日記となっています。

なお「源氏物語」は中宮彰子に仕えている間に完結されました。

 

紫式部の晩年

紫式部は少なくとも寛弘8年(1012 )頃まで宮中で奉仕したとされています。

宮中での奉仕を終えたその後の紫式部の晩年の様子は詳しくはわかっていません。

もともと病弱体質であったとされる紫式部は長和2年(1013 )にはかなり体調が悪く私邸に籠っていたとされており、この頃に詠まれた歌は暗い歌が多く、自らの死を予感していたのではないでしょうか。

紫式部の晩年の様子、正確な死因、亡くなった年などもわかっておらず、まだ謎の多い人物であることがわかります。

紫式部の書いた宮中での日記

紫式部が宮中に奉仕していた頃の日記「紫式部日記」は寛弘5年(1008 )秋から寛弘7年(1010 )正月までに書かれたとされる日記です。

中宮彰子に仕えていた時の宮中の様子や中宮彰子の出産、貴族の関係性、また紫式部の思い出話や、宮中での生活の不満、人間関係の愚痴、自らが執筆した「源氏物語」の世間の評価についてなど書かれ、歴史的価値のある日記となっています。

 

日記中に書かれた人物評

「紫式部日記」には「枕草子」の作者で有名な清少納言について記されています。

清少納言の書いた「枕草子」には、紫式部の夫・藤原宣孝を馬鹿にした記述があり、目を通したであろう紫式部は、清少納言に対して恨みや、対抗心を持ったのではないでしょうか。

その後「紫式部日記」には、清少納言は得意げな顔をして漢字を書きますが、それは間違ったものが多く、まだまだ未熟なものであり、そのような方がいい人生を送れない、といった清少納言に対しての酷評を残しました。

その他にも、一条天皇中宮彰子に奉仕していた、紫式部の後輩にあたる和泉式部をけなした内容も記述されています。

 

ライバルとされる清少納言

よく紫式部のライバルとされるのは清少納言です。

清少納言は随筆「枕草子」の作者で紫式部と同様に平安時代中期の女性作家、歌人でした。

康保3年(966 )から 万寿2年(1025 )頃にかけて活躍したとされ、著名歌人であった清原元輔の娘として誕生しました。

天元4年(981 )頃に陸奥守・橘則光と結婚し翌年には一子則長を出産しますが、夫婦生活は長くは続かず、やがて離婚をします。

その後は摂津守・藤原棟世と再婚し娘・小馬命婦をもうけました。

正暦4年(993 )冬頃から、女房として中宮定子に奉仕しますが長保2年(1000 )に中宮定子が出産で命を落とし、その後、宮仕えを辞めます。

晩年は亡父・清原元輔の山荘があった東山月輪の辺りに住んだとされ、紫式部同様、晩年の詳細は不明です。

 

なぜ二人はライバルとされているのか

紫式部は清少納言が宮中の奉仕を終えてから、宮廷の奉仕に呼ばれたため、2人の間で面識はなく、文通を交わした記録もありません。ではなぜ、清少納言は紫式部のライバルとされているのでしょうか。

 

理由① 権力争い

1つ目にあげられるのが、お互いが奉仕した相手の権力争いによるものです。

清少納言が仕えたのは藤原道隆の娘である中宮定子っで紫式部が仕えたのは藤原道長の娘である中宮彰子でした。

中宮定子、中宮彰子ともに一条天皇の后でしたが、藤原道隆、藤原道長は権力争いをしていたため、その権力を争う家に仕える清少納言、紫式部もライバルのように捉えられることとなったのではないでしょうか。

 

理由② 作風の違い

2つ目に、作風の違いがあげられます。

清少納言の書いた随筆「枕草子」は、中関白家の没落と清少納言の仕えた中宮定子の身にふりかかった不幸や宮中での日々の話題、自然や風物、日々のあり方などを書いたエッセイです。

紫式部の書いた「源氏物語」は光源氏を通して、恋愛、栄光と没落、政治的欲望と権力闘争など、平安時代の貴族社会を描いた物語でした。

お互いの作風は全く異なり、清少納言の作風は明るい知的な美を描いた「おかし」紫式部の作風は情緒があり、しみじみとした情調美を描く「もののあはれ」と表現されます。

このような作風の違いもライバルとされる要因の1つではないでしょうか。

 

理由③ お互いの酷評

3つ目にあげられるのが、お互いの酷評です。

清少納言の書いた「枕草子」に紫式部の夫・藤原宣孝を馬鹿にした記述や、紫式部の書いた「紫式部日記」の中の清少納言に対しての酷評があり、それがライバル関係に見える要因の1つです。

紫式部集

「紫式部集」とは紫式部が少女時代から晩年までに詠んだ歌を選び収めた自撰集です。

幼少のころから紫式部は漢文を読みこなし、和歌なども詠んでおり、多くの作品を残しています。

その一部である紫式部の歌「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」は小倉百人一首のも収められました。

この小倉百人一首は平安時代末期から鎌倉時代初期かけて活躍した藤原定家が京都の小倉山の山荘ので選んだものとされ、通常、百人一首といえばこの小倉百人一首を指すことが多いです。

また平安時代に成立した中古三十六歌仙の名人36人の1人にも選ばれ、女性歌人のみが選ばれる鎌倉中期に成立した女房三十六歌仙の36人のうちの1人にも指定されています。

 

源氏物語

紫式部の代表作である「源氏物語」は今でも多くの方に読まれ、映画化などもされる有名な作品となっています。

「源氏物語」が執筆されたのは、紫式部の夫・藤原宣孝が亡くなった後で、亡き夫の悲しみを忘れるために執筆を始めたとされています。

この「源氏物語」での文才が認められ宮中での奉仕に至りました。

「源氏物語」は宮中で奉仕している間に完成させたとされています。

 

日本文学史上最高の傑作とされる

「源氏物語」は光源氏を通して、恋愛、栄光と没落、政治的欲望と権力闘争など、平安時代の貴族社会を描いた物語でした。

約100万文字に及ぶ文字数でおよそ500名近くの人物が登場し、70年余りの出来事が描かれた長編です。

「源氏物語」は長編小説で3部に分けられることが多く、第1部は光源氏が多くの女性と関係をもちながら、運命に導かれて栄華をきわめる姿が描かれています。

第2部では光源氏は最愛の紫の上を失い、栄華は崩壊に向かっていくといった苦悩に満ちた物語を描き、第3部には光源氏没後の薫大将を主人公とした物語となり、多くの恋愛や貴族社会の苦悩が描かれました。

心理描写の巧みさ、筋立ての巧緻、文章の言葉選びの美しさから日本文学史上最高の傑作ともいわれています。