南北朝時代とは日本の歴史区分の1つです。
足利尊氏が京都で光明天皇(北朝)を擁立したのに対し、吉野で後醍醐天皇(南朝)が新たな朝廷を開いた延元元年(1336)から、北朝第6代・後小松天皇に対し南朝第4代・後亀山天皇が譲位し両朝が合一した元中9年(1392)までの56年間を南北朝時代と呼びます。
そんな南北朝時代の主な出来事や歴代天皇、南北朝時代がタブー視される理由についてわかりやすく解説していきます。
南北朝時代が始まるまでの経緯
南北朝時代の始まりは延元元年(1136)とされています。
南北朝時代が始まる鎌倉時代中期、治天の君であったのは後嵯峨天皇という人物でした。
この人物は鎌倉時代中期にあたる仁治3年(1242)に四条天皇が12歳で崩御したため、即位しました。
即位した後嵯峨天皇は宮廷の実力者・西園寺家と婚姻関係を結ぶなどし、自らの立場の安定を図ったとされています。
寛元元年(1243)6月28日、後嵯峨天皇とその妻・西園寺姞子との間に久仁親王(後の後深草天皇)が誕生します。
後嵯峨天皇は、久仁親王が誕生すると実権を握り続けるために、わずが在位4年で息子の久仁親王(後深草天皇)に譲位し、自らは上皇となり院政を開始しました。
しかし、その後も後嵯峨上皇は実権を握り続けるため正元元年(1259)、後深草天皇に対し、建長元年(1249)に誕生した次男・恒人親王(後の亀山天皇)に譲位するよう迫ります。
こうして院政を繰り返し行った後嵯峨法皇でしたが、文永9年(1272年)2月、53歳で崩御しました。
両統迭立
しかし、後嵯峨法皇は崩御するまでの間に、次の天皇となる治天の君を決めずに崩御してしまったため、残された後嵯峨法皇の息子で兄である後深草上皇(持明院統)と弟の亀山天皇(大覚寺統)の間でどちらが実権を握るのか、どちらが政治を主導していくのか対立が生じました。
この持明院統というのは後深草上皇が譲位後に住まいとしていた寺の名前が由来とされ、大覚寺統というのは亀山天皇の子・後宇多天皇に縁の深い寺の名前が由来とされています。
後深草上皇(持明院統)と弟の亀山天皇(大覚寺統)の対立に対し鎌倉幕府は、持明院統、大覚寺統が交互に皇位につくことを提案し、以降、それぞれの家系から交互に君主が誕生することとなりました。
この仕組みは「両統迭立」と呼ばれています。
鎌倉幕府の滅亡
こうして2つの家系から交互に君主が誕生する両統迭立が行われることとなりましたが、持明院統の花園天皇から譲位され徳治3年(1308)3月29日に即位した後醍醐天皇(大覚寺統)は2つの家系から交互に天皇が誕生する両統迭立に対し、不満を持っていました。
そのため、後醍醐天皇は両統迭立を承認する鎌倉幕府に対し不信感を抱くようになり鎌倉幕府打倒計画を企てます。
しかしこの討幕計画は正中元年(1324年)に発覚し、後醍醐天皇の側近・日野資朝らが処分される事態となりました。
後醍醐天皇はその後も討幕計画を企てますが、再び側近の密告によって発覚することなり、元弘元年(1331)後醍醐天皇は天皇即位の際に必要となる三種の神器とともに京都を脱出します。
脱出した後醍醐天皇でしたが幕府方に捕らえられ翌年、隠岐島へと流されることなりました。
隠岐島へと流された後醍醐天皇でしたが、その後、名和長年ら名和一族の助けもあり元弘3年(1333)隠岐島を脱出します。
この頃になると、後醍醐天皇の皇子護良親王や河内の楠木正成、播磨の赤松則村(円心)らが各地で討幕運動を行っていました。
こうして復活した後醍醐天皇は再び、討幕に向け挙兵します。
足利尊氏や新田義貞といった武士も後醍醐天皇の討幕に協力することとなり、鎌倉幕府は滅びる結果となりました。
室町幕府の誕生
こうして鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は自ら新政を開始します。(建武の新政)
しかし後醍醐天皇が始めた新政は革新的な政策ばかりであったため、公家や武士たちは後醍醐天皇の新政に失望し、後醍醐天皇に代わる次の天皇を求めるようになりました。
この頃になると、鎌倉幕府を共に滅ぼした足利尊氏も後醍醐天皇から離反することとなり、多くの武士たちが後醍醐天皇から離れていくこととなります。
これに対し、後醍醐天皇は新田義貞や北畠顕家に足利尊氏の討伐を命じ、多々良浜の戦い、湊川の戦いが勃発しました。
その後、足利尊氏方に押された後醍醐天皇は足利尊氏と和睦し、京都を脱出し現在の奈良県である吉野へと逃れました。
和睦の際、後醍醐天皇は持っていた三種の神器を朝廷に返したとされています。
こうして京都から後醍醐天皇が去ると足利尊氏は持明院統の光明天皇(北朝)を擁立、建武式目を制定し新たな幕府である室町幕府を開きます。
南北朝時代の幕開け
一方、吉野へと逃れた後醍醐天皇は朝廷に返した三種の神器は偽物である。そのため光明天皇の皇位は正統ではないと主張し、延元元年(1336)、吉野で南朝(吉野朝廷)を開きました。
こうして北と南、2つの朝廷が誕生することとなったのです。
観応の擾乱
その後、北朝、南朝の間で軍事衝突がたびたび繰り返されましたが、延元3年(1338)までの間に名和長年・結城親光・千種忠顕・北畠顕家・新田義貞といった南朝方の武士は次々と戦死しており、また延元4年(1339)に後醍醐天皇が崩御したことにより、北朝が軍事的に優位に立つこととなります。
しかし、室町幕府内では観応の擾乱といった内乱が勃発しました。
この観応の擾乱とは簡単に言えば将軍・足利尊氏とその弟・足利直義の対立で、正平6年(1351)に足利尊氏は弟・足利直義の勢力に対抗するため一時的に北朝から南朝に降伏することなります。
これによって南朝の年号に合わせる「正平一統」が行われることとなり、足利尊氏は征夷大将軍を解任される結果となりました。
南北朝時代の終わり
南朝の年号に合わせる「正平一統」が行われましたが、正平16年(1361)南朝の楠木正儀らが京都を占領したため再び北朝と南朝は対立しあうこととなります。
各地では南朝と北朝による合戦が数々勃発しました。
しかし、元中9年(1392)室町幕府3代将軍・足利義満の斡旋により大覚寺統と持明院統の両統迭立、国衙領を大覚寺統の領地とする、といった明徳の和約が定められ、これによって南北朝の合体がなされ、56年間にも及ぶ南北朝時代は終わりを迎えました。
南北朝時代がタブー視される理由
たびたび南北朝時代を取り上げることについてタブー視されることがあります。
特に明治時代から昭和戦前にかけてタブー視されることが多かったとされています。
室町幕府は時の天皇である後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏によって開かれました。
これにより足利尊氏は天皇家の敵と見なされることとなり、足利尊氏の討伐に向かった楠木正成、新田義貞は昭和戦前から英雄視されるようになったのです。
後醍醐天皇が足利尊氏に敗北した後、日本では武士中心の時代が続きました。
その後、明治に入ると明治政府は武家が中心となった政治を否定し、天皇の下で国民が結束する新たな政府を開こうとします。
しかし明治22年(1189)に公布された大日本帝国憲法には「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」大日本帝国は、万世一系の天皇が、これを統治する。 と記されているのに対し、南北朝時代の歴代の天皇を振り返ると皇室が2つあったため、皇室の歴史は万世一系ではなかったということとなり、タブー視されるようになったとされています。
南北朝時代の天皇
南北朝時代の歴代天皇をご紹介いたします。
第88代天皇・後嵯峨天皇
第89代天皇・後深草天皇(持明院統)
第90代天皇・亀山天皇(大覚寺統)
第91代天皇・後宇多天皇(大覚寺統)
第92代天皇・伏見天皇(持明院統)
第93代天皇・後伏見天皇(持明院統)
第94代天皇・後二条天皇(大覚寺統)
第95代天皇・花園天皇(持明院統)
第96代天皇、南朝第1代天皇・後醍醐天皇(大覚寺統)
第97代天皇、南朝第2代天皇・後村上天皇(大覚寺統)
第98代天皇、南朝第3代天皇・長慶天皇(大覚寺統)
第99代天皇、南朝第4代天皇・後亀山天皇(大覚寺統)
第100代天皇・後小松天皇 (持明院統)
北朝の天皇
北朝第1代天皇・光厳天皇(持明院統)
北朝第2代天皇・光明天皇(持明院統)
北朝第3代天皇・崇光天皇(持明院統)
北朝第4代天皇・後光厳天皇(持明院統)
北朝第5代天皇・後円融天皇(持明院統)
北朝第6代天皇・後小松天皇(持明院統)