新渡戸稲造は江戸時代後半から昭和にかけて活躍した日本の教育者、思想家です。
農業経済学や農学の研究なども行い、キリスト教に入信すると、「武士道」を英語で執筆し、日本文化を紹介しました。
昭和59年には、功績が称えられ5千円貨幣の肖像に採用されています。
そんな新渡戸稲造の生涯と名言、子孫や「武士道」、五千円札の肖像に採用された理由を解説していきます。
新渡戸稲造の生い立ち
新渡戸稲造は文久2年(1862)9月1日、現在の岩手県盛岡市である陸奥国岩手郡で藩主南部利剛の用人・盛岡藩新渡戸十次郎の三男として誕生します。
新渡戸稲造の実家には西洋の家具などがあり、幼いころから西洋文化に興味を持っていたとされています。
作人館に入学すると、その傍ら新渡戸家の掛かりつけ医師から英語を学びました。
作人館を卒業すると、東京で洋服店を営んでいた叔父・太田時敏から東京で、勉強しないかと勧められ、新渡戸稲造は東京へと旅立ちました。
東京英語学校に入学
東京に出た新渡戸稲造は叔父・太田時敏の養子となり太田稲造と名乗ります。
東京の英語学校で英語を学ぶと、元盛岡藩主南部利恭が経営していた「共慣義塾」に入塾しました。
13歳になると、当時設立したばかりであった現在の東京大学である東京英語学校に入学します。
この頃から、後に農学博士となる佐藤昌介と交流を持つようになり、農学の道に進むことを決心します。
札幌農学校に入学、キリスト教に入信
その後、後の北海道大学となる札幌農学校に二期生として入学します。
農学校創立時から副校長として赴任していたウィリアム・クラーク博士はアメリカへと帰国していました。
ウィリアム・クラーク博士は農学校の1期生たちに倫理学の講義の際、聖書を講じていたため、1期生のほとんどがキリスト教に入信していました。
よって新渡戸稲造ら2期生は1期生からキリスト教への入信を迫られウィリアム・クラーク博士が残した「イエスを信ずるものの誓約」に署名し、農学校入学前からキリスト教に興味を持っていた新渡戸稲造もキリスト教に入信することとなり、「パウロ」という洗礼名が与えられます。
この頃から、目を悪くした新渡戸稲造は眼鏡をかけるようになりましたが、眼病を患い、そのため勉学に支障が生じ、それが原因でうつ病を発症しました。
明治13(1880)7月に新渡戸稲造は盛岡へと帰りましたが、その3日前に母が亡くなってしまったため、うつ病はさらに悪化しました。
その後、東京に戻り治療に専念し、うつ病を克服します。
留学と結婚
農学校卒業後は道庁の職に就くも、帝国大学に進学します。
しかし、帝国大学の研究レベルの低さに失望した新渡戸稲造は退学すると明治17年(1884)アメリカに実費で留学し、ジョンズ・ホプキンス大学に入学しました。
その後、札幌農学校助教授に任命されると、ジョンズ・ホプキンス大学を中退し、ドイツへと留学しハレ大学で農業経済学の博士号を与えられます。
日本へと帰国途中、アメリカ留学時代に出会ったアメリカ人女性のメアリー・エルキントンと結婚し、明治24年(1891)日本に帰国しました。
日本に帰国した新渡戸稲造は札幌農学校の教授に就任となるも、夫婦とも体調を崩し教授職を休職しカリフォルニア州で転地療養を行いました。
「武士道」の執筆、出版
この間、新渡戸稲造は武士階級の倫理、道徳、また日本の文化を紹介した「武士道」の執筆を英文で行います。
当時、日清戦争で日本軍が勝利を収めたことによって、日本人や日本文化の関心が高まっていた時期でした。
そのため明治33年(1900)に出版されるとベストセラーとなり、ドイツ語、フランス語などに翻訳され出版されるようになります。
日本語訳がされ日本で販売されたのは日露戦争後のことでした。
台湾の糖業発展に貢献する
明治34年(1901)農学校を辞職し台湾総督府民政長官となった同郷の後藤新平から推薦され台湾総督府の技師となります。
その後も民政局殖産課長、殖産局長心得、臨時台湾糖務局長となり「糖業改良意見書」を児玉源太郎総督に提出し、台湾の糖業発展に貢献しました。
「郷土会」を発足
明治36年(1903)になると京都帝国大学法科大学教授も兼任します。
明治39年(1906)には植民政策の論文を京都帝国大学に提出し、法学博士の学位を与えられ、東京帝国大学法科大学教授との兼任で、第一高等学校校長に任命されました。
当時まだ、西洋文化が根づいていなかった第一高等学校に西洋文化を取り入れ、学生たちにはカーライルが執筆した「衣服哲学」を勧めます。
明治42年(1909)になると各地の郷土の制度、慣習、民間伝承などの研究を行う「郷土会」を発足しました。
このメンバーには民俗学者・柳田國男、理学博士・草野俊介、農学博士・小野武夫などが加入していたとされています。
新渡戸稲造の晩年の最期
大正9年(1920)国際連盟設立の際、新渡戸稲造は「武士道」の著者として国際的に名高いとして事務次長の1人に選ばれ、大正15年(1926)まで事務次長を務めます。
その後、昭和3年(1928)東京女子経済専門学校(後の新渡戸文化短期大学)の初代校長に就任し昭和8年(1933)に日本が国際連盟脱退するとカナダで行われた太平洋問題調査会会議に日本代表の団長として参加しました。
会議終了後、カナダで出血性膵臓炎によって倒れ同年10月15日に開腹手術が行われましたが、72歳で亡くなりました。
新渡戸稲造が紙幣の肖像に描かれた理由
新渡戸稲造は昭和59年(1984)11月1日に発行された五千円紙幣の肖像に採用されました。
お札の肖像は、世界に影響を与えた日本国民、かつ偽造防止の観点から人物像が写真や絵画に残されている人が採用されます。
そのため世界各国で「武士道」が翻訳され、名高い新渡戸稲造が五千円紙幣の肖像に採用されました。
名言
新渡戸稲造は著書「武士道」の中でこのような名言を残しています。
新渡戸稲造の子孫
新渡戸稲造は明治24年(1891)アメリカ人女性であるメリー・エルキントンと結婚しました。
翌年に長男・遠益(とおます)が誕生するも1週間後に亡くなります。
その後、2人の間に子供はでなかったため、新渡戸稲造には直系の子孫はいません。
しかし孝夫とこと子という名前の養子を迎えたので、新渡戸稲造の孫とされる方は現在も活躍されています。