日本の大学に初めて体育学部を作り、体育教育の発展に尽くした野口源三郎。学生時代は東京高等師範学校のマラソンランナーでした。
金栗四三との関係や知られざるエピソードを解説します。
野口源三郎とは
1888年、野口は埼玉県深谷市に生まれ、1年後に母親を亡くしたため親戚へ養子に出されました。
その後は埼玉師範学校(現在の埼玉大学)に進学し、一旦は小学校の教員になります。
しかし運動神経の良さから校長の勧めもあり、東京高等師範学校(現在の筑波大学)に進学しました。
校長・嘉納治五郎にも認められ最初はマラソン、のちにフィールド競技の選手となります。
その後は、指導者、研究者として活躍し、大学に日本初の体育学部を作るなど体育教育の発展に貢献しました。
野口源三郎の生涯
マラソンランナーになる
東京高等師範学校へ進学すると、学生のスポーツを推奨し、校内マラソンを行っていた校長・嘉納治五郎の目に留まります。
そして、1911年、日本初のオリンピック出場をかけた予選競技会では、金栗四三とともに25マイルを走りきりました。
野口は、4位という成績で残念ながら代表には選ばれませんでしたが、その健闘が話題になります。
フィールド競技でオリンピックへ
その後、野口はフィールド競技へ転向、1917年の第五回日本陸上選手権では日本記録を出しました。
そして1920年には十種競技の主将としてアントワープオリンピックへ出場しますが、記録は振るわず12人中12位となります。
嘉納治五郎の片腕として
嘉納治五郎からの指示もあって、この渡欧のチャンスに野口は他国の陸上技術を見て回り、日本へ最新の陸上技術をもたらしました。
当時は競技中はトラックの中から出られなかったこともあり、間近でほかの選手を観察する大チャンスだったのです。
体育の研究者、指導者として
1915年に大日本体育協会の理事となり、日本のスポーツ普及に努めました。
そして、1924年のパリオリンピックでは監督として選手団に随行します。
また、研究者としても論文を発表するなど、体育教育の基礎を作り上げました。
戦後、筑波大学の教授と兼務で埼玉大学の教授にも就任し、日本で初めて大学に体育学部を作ります。
1933年に日本陸上連盟から初めての「功労賞」を授与され、1960年には「紫綬褒章」を授章し、1967年に80歳で亡くなりました。
箱根駅伝の発案者の一人
1919年、東京高等師範学校の教授だった野口は、長距離ランナーで明治大学の学生だった沢田栄一と金栗四三とともに鴻巣小学校の審判に招かれました。
その帰り道の車中、いかにして後進を育てるかという議論になります。
途方もない企画
金栗は後進を育てるための手段として駅伝が最適だと主張し、3人は長距離ランナーを育てるためにけた外れの駅伝を企画しようとします。
3人ともマラソン経験者で日本国内は走りつくした感があり、「アメリカ大陸横断マラソン」という途方もない企画が出来上がりました。
箱根駅伝のはじまり
しかしアメリカ大陸を横断するとなると、険しい山脈地帯や砂漠の中を走ることになります。
アメリカでの決勝戦を見据えて、その予選として企画されたのが、山道を往復するコースをとる箱根駅伝でした。
残念ながら、アメリカ大陸横断マラソンはスポンサーの関係で立ち消えになりましたが、その代わり箱根駅伝が現在まで続くことになります。
その他エピソード
空腹を我慢できない癖
1911年のオリンピック予選会で4位に終わったのは、空腹を我慢できない癖が理由だったという噂があります。
野口は競技中でも腹が減るとどうしても我慢が出来ないという性格で、駄菓子屋に入って目についたパンをそのまま食べようとしたそうです。
それを親戚に目撃され注意を受けたため、マラソンを辞めてフィールド競技に転向したと言われています。