緒方竹虎とは?経歴や緒方貞子との関係性、また元号「大正」やCIAとの関わりについて解説!

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緒方竹虎とは朝日新聞社の記者となった後、朝日新聞社副社長、自由党総裁、副総理となった人物です。

明治天皇崩御後いち早く新しい元号「大正」を報じた人物として有名です。

そんな緒方竹虎の経歴やCIAとの関わり、また国際協力機構 (JICA) 理事長などを務められた緒方貞子さんとの関わりについて解説していきます。

緒方竹虎の生い立ち

緒方竹虎は明治21年(1888年)1月30日、山形県山形市旅籠町で山形県書記官であった緒方道平の三男として誕生しました。

父の道平が福岡県書記官への転任となったため4歳の時に、福岡県福岡市へと移り住みます。

父・道平は書記官として働いていましたが、明治29(1896年)から明治31年(1898年)まで続いた松方正義内閣によって退官となり、その後福岡農工銀行頭取となりました。

福岡師範学校附属小学校卒業後、福岡県立中学修猷館に進学した緒方竹虎は12歳の頃から一到館に入門し剣道を習い始めたとされ、中学に上がるころには小野派一刀流免許皆伝となるほどの腕前を持っていました。

 

申酉事件の責任を取り退学

福岡県立中学修猷館を卒業後、東京高等商業学校(現在の一橋大学)に入学します。

明治41年(1908年)から翌年の明治42年(1909年)にかけて東京高等商業学校(一橋大学の前身)と文部省が専攻部の廃止を巡り対立し、専攻部廃止の文部省令に反対する学生のリーダーとして学生総退学決議を行います。

この東京高等商業学校と文部省の専攻部を巡る対立は、東京高等商業学校の勝利に終わりますが、リーダーとして文部省に反抗していた緒方竹虎は責任を取るという形で武井大助らとともに退学となりました。(申酉事件)

東京高等商業学校を退学した緒方竹虎はその後、東京高商退学生の受け入れに積極的だった早稲田大学専門部の政治経済科に編入します。

そこで緒方竹虎は政治結社玄洋社の頭山満や政治家・三浦梧楼、犬養毅、古島一雄らと交流を深めました。

朝日新聞社に入社

明治44年(1911年)7月、緒方竹虎は早稲田大学専門部を卒業します。

卒業後は後に政治結社東方会総裁、衆議院議員となる中野正剛に誘われ、大阪朝日新聞に入社し弓削田精一が率いる大阪通信部員(東京勤務)となりました。

 

新元号「大正」をスクープ

明治45年(1912年)7月20日、明治天皇が尿毒症と診断されその後も容態は悪化し続けました。

明治天皇の容態の変化に伴い、各新聞社の記者たちは次の元号をいち早く伝えようと必死でした。

この時まだ新人の緒方竹虎は、天皇の諮問機関である枢密顧問官を務めていた三浦梧楼と面識があたっため、邸宅で待ち構え三浦梧楼から新元号「大正」を聞きだします。

緒方竹虎が聞きだした新元号「大正」はすぐさま新聞で報じられることとなり、緒方竹虎は名を馳せることとなりました。

 

派閥争い

緒方竹虎が入社した朝日新聞社は当時、社内で村山龍平・鳥居素川派と上野理一・西村天囚派の対立がありました。

大阪通信部員を率いていた弓削田精一は上野理一・西村天囚派に属していましたが、弓削田精一が退社すると、大正5年(1916年)緒方竹虎は整理課員に左遷されることとなりました。

しかし大正7年(1918年)言論統制事件とされる白虹事件によって村山龍平・鳥居素川派は対人に追い込まれることとなり、それによって上野理一・西村天囚派が勢力を持ち直すと、緒方竹虎は大阪朝日新聞社論説班の幹事に抜擢されることとなります。

朝日新聞社の退社を決意

30歳で大阪朝日新聞社論説班の幹事に抜擢された緒方竹虎でしたが、大正8年(1919年)村山龍平と西村天囚が再び対立し西村天囚が退社すると、村山派から良く思われていない西村派の緒方竹虎は会社での居場所を失い退社を決意します。

朝日新聞社を退社した緒方竹虎はその後、イギリスへ私費留学に旅立ちます。

しかしアメリカからロンドンへ向かう最中、緒方竹虎の退社を聞いたニューヨーク特派員・美土路昌一が大正10年(1921年)日本に帰国した際、朝日首脳陣に緒方竹虎の慰留を働きかけました。

 

出世を果たす

美土路昌一の働きかけもあり大正11年(1922年)日本に帰国した緒方竹虎は朝日新聞社幹部に温かく迎えられ、その後、大阪朝日新聞社東京通信部長に就任となりました。

以降、出世を果たしていった緒方竹虎は昭和9年(1934年)5月には常務取締役となります。

昭和11年(1936年)2月に起きた二・二六事件まで東京朝日新聞社の責任者は副社長の下村宏でしたが退社したため、緒方竹虎がその後任として同年4月責任者となりました。

さらに翌月の5月には朝日新聞社主筆、代表取締役専務取締役となり、朝日新聞社の顔として、全ての責任を負う立場となります。

しかし、同年5月に社長に就任した村山家の2代目・村山長挙は緒方竹虎の持つ実力や名声を良く思っておらず、反緒方派を生むこととなります。

 

政友会寄りの立場であったものの、親軍的な路線に変更

緒方竹虎は昭和6年(1931年)の満州事変、昭和7年(1917年)の五・一五事件以前は政友会寄りの立場であったものの、自らが執筆するといったことは多くはなく、朝日新聞社の社論に関わるようなことはありませんでした。

しかし、満州事変、五・一五事件以降は社論の統一を行うようになり、親軍的な路線に変更します。

昭和11年(1936年)2月に起きた二・二六事件の後、緒方竹虎はまたもや社論の路線を変更すると緒方竹虎のやり方に反発した論説委員の前田多門と関口泰が相次いで退社し、緒方竹虎の権力集中に良く思わない反緒方派の勢力はますます拡大をみせました。

 

ゾルゲ事件による責任追求

近衛文麿の政策研究団体である昭和研究会には緒方竹虎の承認のもと前田多門、佐々弘雄、笠信太郎、尾崎秀実といった朝日新聞社の論説委員や記者たちが参加していました。

緒方竹虎自身も第2次近衛内閣期に行われた外交政策・新体制運動に積極的に関与していたとされています。

昭和16年(1941年)緒方竹虎が可愛がっていた昭和研究会に参加する尾崎秀実が、ソ連の革命家であるリヒャルト・ゾルゲの主導するソビエト連邦の諜報組織「ゾルゲ諜報団」に参加し、日本でスパイ活動を行っていたとして逮捕されます。(ゾルゲ事件)

このゾルゲ事件を機に緒方竹虎は責任追求として主筆辞任を要求されることとなりますが、結局主筆はそのままとし昭和17年(1942年)編集責任担当者を解かれるに留まりました。

 

中野正剛事件を機に東条英機と対立

昭和18年(1943年)衆議院議員となった親友の中野正剛が「戦時宰相論」を朝日新聞で発表します。

これは内閣総理大臣の東條英機を痛烈に批判したもので、中野正剛は警視庁特高部によって同年10月21日、身柄を拘束されることとなりました。

最終的に10月25日に釈放されることとなりましたが、中野正剛は釈放された2日後に割腹自殺を図り亡くなります。(中野正剛事件)

親友でもあった中野正剛の葬儀委員長を務めた緒方竹虎は東条英機からの供花を拒否したため、緒方竹虎と東条英機の確執が朝日新聞大阪本社に大々的に伝えられることとなります。

新元号「大正」をスクープしたことがあっても目立つような実績のなかった緒方竹虎でしたが、玄洋社の頭山満や政治家・三浦梧楼、犬養毅などと交流もあり、また軍に顔の聞く存在でした。

そのため朝日新聞社にとって緒方竹虎の存在は非常に便利であったのです。

しかし代表者に任命したにも関わらず、中野正剛事件をきっかけに緒方竹虎が東条英機と対立関係に陥ってしまったため、朝日新聞社は緒方竹虎と東条英機の確執を埋めようと必死でした。

 

朝日新聞社を退社

その後、緒方竹虎は昭和18年(1943年)代表取締役専務取締役・石井光次郎と共に社長・村山長挙と会長・上野精一の退任を要求し、自らを社長にするよう村山長挙に要求します。

しかし、村山長挙と上野精一の反撃に遭い結果、緒方竹虎は実権のない副社長に任命されることとなりました。

実権のない副社長となった緒方竹虎は昭和19年(1944年)7月、小磯内閣に入閣するため朝日新聞社を退社します。

小磯内閣に入閣

朝日新聞社退社後、国務大臣兼情報局総裁として小磯内閣に入閣します。

それと同時に緒方竹虎は「言論暢達」政策として編集責任者に新聞指導を行いました。

この新聞指導は情報局総裁であることから戦局に関する情報を聞き出すことを目的とし行われたものでしたが、陸軍の協力を得ることはできず、必要不可欠な情報収集源を持つことはできませんでした。

また緒方竹虎は首相・小磯國昭とともに蒋介石の重慶国民政府を相手とした和平工作を推進しましたが、外務大臣・重光葵や陸軍大臣・杉山元、海軍大臣・米内光政や昭和天皇から反対され、結果、内閣総辞職となりました。

 

東久邇宮内閣の国務大臣兼内閣書記官長兼情報局総裁に就任

その後、終戦後の昭和20年(1945年)5月、緒方竹虎は鈴木貫太郎内閣の内閣顧問となり、8月には東久邇宮内閣の国務大臣兼内閣書記官長兼情報局総裁に就任となります。

敗戦処理を行った東久邇宮内閣で緒方竹虎は内閣書記官長と内閣の大番頭を務めるも昭和20年(1945年)10月、内閣総辞職となります。

内閣総辞職後、緒方竹虎は村山長挙が辞任した後の朝日新聞社社長に就任予定でしたが、一時的にA級戦犯容疑者に指名され、また公職追放となったため、朝日新聞社社長に就任することはできませんでした。

 

日本版CIAを作ろうとしていた

昭和27年(1952年)10月、緒方竹虎は第25回衆議院議員総選挙に出馬し見事当選、第4次吉田内閣で国務大臣兼内閣官房長官、副総理に就任します。

翌年の第5次吉田内閣でも副総理に就任しました。

緒方竹虎は内閣復帰前の昭和27年(1952年)4月、緒方竹虎は吉田茂、村井順とともにCIA(アメリカの情報機関)、MI5、MI6(イギリスの情報機関)を参考に内閣総理大臣官房に「調査室」という情報機関を設立していました。

内閣復帰後は復帰前に設立した調査室よりもより強力な情報機関、いわば「日本版CIA」作ろうと構想を練っていました。

しかし、この緒方竹虎の構想は国会や外務省、また世論から批判を浴びることとなり、結果、第5次吉田内閣の下で情報機関の強化、拡大に留まることとなります。

 

第1次鳩山内閣の誕生

吉田政権末期、急速に政権の力が失われていく中で吉田茂は政権の維持に執念を燃やしていました。

そんな吉田茂に対し緒方竹虎は自らの政治生命をかけて内閣総辞職を主張します。

その結果、昭和29年(1954年)12月8日、吉田内閣は総辞職となり2日後の12月10日、第1次鳩山内閣が成立しました。

 

緒方竹虎の最期

緒方竹虎は吉田茂辞任後の自由党総裁を務め、その後、昭和30年(1955年)11月、自由民主党が結党されると緒方竹虎は総裁代行委員に就任します。

自由民主党の総裁代行委員となった緒方竹虎でしたが、多忙による睡眠不足と過労から昭和31年(1956年)1月28日、急性心臓衰弱のため67歳で亡くなりました。

 

緒方貞子との関係性

緒方竹虎の義娘(緒方竹虎の三男・緒方四十郎の妻)である現在91歳の緒方貞子さんは国連公使、国際連合児童基金 (UNICEF) 執行理事会議長また国連人権委員会日本政府代表や国際協力機構 (JICA) 理事長などを務められた人物です。

 

さいごに

緒方竹虎は新聞記者の経歴を経て自由党総裁、副総理となった人物でした。

現在放送中の大河ドラマ「いだてん」では俳優のリリー・フランキーさんが緒方竹虎を演じられています。