橘家圓喬とは?生い立ちや経歴、古今亭志ん生(美濃部孝蔵)との関係性について解説!

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橘家圓喬(たちばなや えんきょう)とは慶応から大正にかけて東京で活躍した落語家です。

明治4年(1872)7歳で三遊亭圓朝門下に入門し三遊亭朝太と名乗り始めてから、大正元年(1912)まで落語家として活動しました。

弟子には2代目蜃気楼龍玉、橘家小圓喬、4代目三遊亭圓好などがいたとされています。

そんな橘家圓喬の生い立ちや経歴、古今亭志ん生(美濃部孝蔵)との関係性について解説していきます。

橘家圓喬の生い立ち

橘家圓喬の本名は柴田清五郎といいます。

慶応元年(1865)11月9日、現在の東京都墨田区江東橋近辺である本所柳原において、江戸時代、幕府の御家人を務めていた父のもとで誕生しました。

橘家圓喬には姉がおり、その姉婿であり落語家でもある4代目橘家圓太郎が近所に住んでいたとされています。

また叔父が三遊亭圓朝の贔屓客であり、このようなことから橘家圓喬は幼い頃から寄席の楽屋に出入りすることが許されていました。

橘家圓喬が7歳になった明治4年(1872)三遊亭圓朝門下に弟子入りすると「三遊亭朝太」と名乗り始め、落語家として生きていくこととなります。

 

2代目三遊亭圓好と改名

落語家として技術を身に着けた橘家圓喬は明治11年(1878)に「二つ目」に昇進し、「2代目三遊亭圓好」と改名しました。

落語家には「前座」「二つ目」「真打」と3つの階級があります。

「前座」とは寄席の楽屋の雑用などを行う、修行中の身分で、「二つ目」とは羽織を着ることが許される身分です。

前座から昇進したものが「二つ目」となることができます。

最後に「真打」とは実力もつき弟子をつけることのできる身分です。

寄席や落語会においてトリを務めることができる身分であるため、落語家の中でも高い階級となっています。

焼き物師を志す

この頃になると4代目三遊亭圓橘は橘家圓喬に対し、素噺に転向するよう助言します。

こうして素噺を始めた橘家圓喬でしたが、周囲の評判は悪く廃業することとなりました。

その後、明治15年(1882)になると橘家圓喬は焼き物師を志すようになり東京を離れ京都へと向かいます。

 

立花家橘之助のもとで修行を行う

しかし、焼き物師を志していた橘家圓喬でしたが、立花家橘之助(たちばなや きつのすけ)の一座に出会うと、すぐさま一座で修行を開始し始めるのでした。

立花家橘之助とは女流音曲師で、おもに寄席で活躍していたとされています。

橘家圓喬が焼き物師を志し、東京を発った明治15年(1882)、立花家橘之助は大阪、京都、名古屋で巡業を行っていました。

この巡業に橘家圓喬は同行し、修行を行ったとされています。

 

橘家圓喬を襲名

立花家橘之助に同行し、修行を始めた3年後の明治18年(1885)、橘家圓喬は兵役検査のため東京へと戻ります。

東京へと戻った橘家圓喬は「4代目三遊亭圓喬」と名乗ったとされており、明治20年(1887)になると改めて「4代目橘家圓喬」を襲名し、日本橋瀬戸物町において興行の最後の出番を務めました。

興行のトリを務めるということは落語家の中でも身分の高い「真打」に昇進していたということがわかります。

 

「第一次落語研究会」の発足

明治36年(1903)になると橘家圓喬は初代三遊亭圓左、3代目柳家小さん、4代目橘家圓蔵らとともに「第一次落語研究会」を発足します。

この「第一次落語研究会」とは商業目的で発足された研究会ではなく、理念の追及を行う組織として発足されました。

明治38年(1905)に発足された落語研究会は現在も継続されています。

 

橘家圓喬の最期

大正元年(1912)11月16日、橘家圓喬は現在の東京都新宿区新宿3丁目にある新宿末廣亭で高座を務めます。

しかし、その6日後の大正元年(1912)11月22日、橘家圓喬は46歳の若さで肺病のため亡くなりました。

古今亭志ん生(美濃部孝蔵)との関係性

橘家圓喬には多くの弟子がいました。

中には後に戦後の東京落語界を代表する落語家の1人と評価されることとなる、古今亭志ん生(美濃部孝蔵)がいたとされています。

古今亭志ん生(美濃部孝蔵)は生涯において多くの師匠を持ちました。

しかし、橘家圓喬が亡くなった後も、古今亭志ん生(美濃部孝蔵)は橘家圓喬の弟子であるということを生涯語っていたとされています。

 

性格

仲間から嫌われていた

橘家圓喬は気に入らない者がいると、わざとその前の高座に上がり巧みな噺をし、次に出るものを困らせ、その者の噺を楽屋で聞きながら冷笑していたとされています。

また4代目橘家圓蔵が高座に上がり噺をしているとき、橘家圓喬は「あれは噺ではなく、おしゃべりだ。」といった悪口を言っていたという逸話が残されています。

 

人情味の厚い一面も

仲間内から嫌われていた橘家圓喬でしたが、人情味の厚い一面もあったとされています。

初代三遊亭右女助(後の4代目古今亭今輔)という落語家は大阪から東京へと上京しました。

しかし、東京に馴染みのない初代三遊亭右女助(後の4代目古今亭今輔)でしたので、初代三遊亭右女助(後の4代目古今亭今輔)の前の高座を行っていた橘家圓喬は、高座を終えるとすぐさま「さて次に上がりまする右女助は大阪から来たばかりなので、よろしくおひきたてのほどをお願い申し上げます。」と述べ、初代三遊亭右女助(後の4代目古今亭今輔)をフォローしていたとされています。

 

まとめ

橘家圓喬は東京で活躍した落語家でした。

多くの弟子を輩出した橘家圓喬は古今亭志ん生(美濃部孝蔵)も弟子にしていたとされています。

橘家圓喬は2019年大河ドラマ「いだてん」に登場しており、俳優の松尾スズキさんが橘家圓喬を演じられています。

また弟子である古今亭志ん生(美濃部孝蔵)の青年期を俳優の森山未來さん、壮年期をビートたけしさんが演じられています。