武田千代三郎とは?生い立ちや経歴、駅伝の名付け親となった経緯について解説!

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武田千代三郎とは書記官、知事などの就任後、大日本体育協会副会長に就任した人物です。

大日本体育協会副会長在任中に開催されたマラソン大会を「駅伝」と命名したことによって「駅伝」の名付け親となりました。

そんな武田千代三郎の生い立ちや経歴、「駅伝」の名付け親となった経緯や「駅伝」の言葉の由来について解説していきます。

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武田千代三郎の生い立ち

武田千代三郎は筑後国山門郡柳河(現在の福岡県柳川市)において、柳河藩士・武田道夫の次男として誕生しました。

共立学校、第一高等学校を卒業後、東京帝國大學法科大学法律学科に入学します。

東京帝國大學法科大学法律学科に在学中は、日本に近代スポーツを伝えたとされるイギリス人宣教師ストレンジからスポーツ論を学んだとされ、後にスポーツ哲学、スポーツ科学に関する「心身鍛練少年競技運動」、「理論実験競技運動」を出版します。

 

東京帝國大學法科大学法律学科卒業後

明治22年(1889年)7月に東京帝國大學法科大学法律学科を卒業した武田千代三郎は、同年8月に法制局に務め始めました。

しかし、12月には徴兵されることとなり近衛歩兵第1連隊に入隊します。

翌年の11月には陸軍歩兵二等軍曹で満期除隊となり、法制局試補となり、さらに法制局参事官となりました。

明治26年(1893年)4月になると内務省に転じ広島県参事官となり、以降、長野県警部長、群馬県書記官、兵庫県書記官などに就任します。

 

知事となる

明治32年(1899年)には秋田県知事、明治35年(1902年)には山口県知事となりました。

その後、明治38年(1905年)には山梨県知事となります。

山梨県知事として在職中、明治40年の大水害が発生します。

明治40年の大水害とは明治40年(1907年)山梨県で発生した水害で、多くの被災者を出しました。

この大水害において武田千代三郎は災害後、陣頭指揮をとったとされ、その後、大水害の様子を『明治四十年大水害実記』として記録しました。

明治41年(1908年)には青森県知事に就任します。

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大日本体育協会副会長に就任

大正2年(1913年)7月に退官した武田千代三郎は同年9月から神宮皇學館長、大日本体育協会副会長に就任しました。

大日本体育協会の副会長となった武田千代三郎は当時、会長を務めていた岸清一とともに財政の立て直しに力を注ぎます。

 

「駅伝」の名付け親

大正6年(1917年)マラソンが開催されます。

このマラソンは東京奠都50周年記念、つまり明治維新によって江戸が東京とされ、都として定められてから50年の記念行事として開催された徒歩競争でした。

関西組、関東組に分けられ京都の三条大橋から東京の上野不忍池までの約508㎞を昼夜問わず走り続けるといった競技で、この時、関東組のアンカーを務めたのはストックホルムオリンピックに出場した金栗四三とされています。

当初「マラソン・リレー」と呼ばれていましたが、大日本体育協会副会長であった武田千代三郎はこの競技を「駅伝」と命名しました。

「駅伝」という言葉は日本書紀に記載されるなど非常に歴史の深い言葉です。

首都と地方を結ぶ道路網に置かれた中継所のことは昔から「駅」と呼ばれており、この「駅」には宿泊施設や馬、人などが配置されていました。

その「駅」に朝廷からの使者が到着すると、次の「駅」までの乗り換え用の馬が用意されていました。

この乗り換え用の馬が準備されている制度は「駅制と伝馬制」または「駅伝貢進」と呼ばれており、ここからヒントを得た武田千代三郎は「駅伝」という言葉を採用したとされ、「駅伝」の名付け親となったのでした。

 

武田千代三郎の最期

武田千代三郎は神宮皇學館長、大日本体育協会副会長以外にも市立大阪高等商業学校長事務取扱、同校長、学長事務取扱に就任しています。

その後、昭和7年(1932年)5月26日、65歳で亡くなりました。

 

まとめ

武田千代三郎は書記官、知事などの就任後、大日本体育協会副会長に就任しました。

大日本体育協会副会長の在任中に開催されたマラソンを「駅伝」と命名したことによって「駅伝」の名付け親となりました。

現在放送中のNHK大河ドラマ「いだてん」では俳優の永島敏行さんが武田千代三郎を演じられています。