滝廉太郎とは?荒城の月・花・憾みなどの名曲を生み出した天才の生涯について解説!

明治時代に日本の音楽の方向性を大きく転換させた一人の天才作曲家が登場します。

彼は日本に入ってきた西洋音楽を取り込んだ日本独自のオリジナリティー溢れる曲を世に出し、「花」など多くが唱歌として教育現場でも採用され、日本の音楽教育にも多大な影響を与えました。

今回は明治時代に登場した天才作曲家・滝廉太郎の生涯や時代背景を検証しながら、彼が産み出した「憾み」などの作品を解説して行きたいと思います。

天才作曲家・滝廉太郎の誕生

1879年(明治12年)8月24日、滝吉弘(たきよしひろ)の長男として東京府芝区(現在の東京都港区)で生まれました。

滝家は豊後国日出藩家老職の名門の家柄で、父・吉弘も上司が大久保利通(おおくぼとしみち)や伊藤博文(いとうひろふみ)という内務省官僚でした。

父の転勤に伴い、各地の尋常小学校を転々とした後に東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に入学し、ピアノの演奏でメキメキと頭角を表し始めます。

1900年10月7日、東京市麹町区(現在の東京都港区)の聖公会グレース・エピスコパル・チャーチで洗礼を受けてクリスチャンとなります。

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時代が求めた日本独自の音楽

滝廉太郎は洗礼を受ける直前にピアノ独奏曲「メヌエット」を発表しました。

メヌエットは日本人作曲家初のピアノ独奏曲で滝廉太郎が作曲した曲では珍しい器楽作品(歌詞がない)でした。

この頃の日本の音楽事情は外国曲に日本語歌詞をつけた「蝶々」、「仰げば尊し」、「蛍の光」などばかりで作詞、作曲ともに日本人というのは存在しませんでした。

このため日本独自のメロディーを求める雰囲気が世の中にあり、また学校の教育現場でもそれらが求められていました。

滝廉太郎が1901年に作曲、土井 晩翠(どい ばんすい)が作詞した「荒城の月(春高楼こうろうの花の宴えん~)」鳥居忱(とりいまこと)が作詞した「箱根八里(箱根の山は、天下の嶮~)」はこのような時代背景にマッチし、文部省が編纂した中学唱歌に掲載されました。

 

海外留学と突然の死

国内で作曲家の才能を開花させた滝廉太郎は、1901年にドイツ・ベルリンへ留学、バイオリニストの幸田幸(こうだこう)、クラリネット奏者・吉本光蔵(よしもとみつぞう)と交友を結び、結婚行進曲を作曲したメンデルスゾーンが設立したライプツィヒ音楽院に文部省外国留学生として入学、勉強を始めますがわずか5か月後に肺結核を発症します。

ドイツで治療を受けるものの進展がなく、翌1902年日本に帰国し、父の故郷である大分県で療養しましたが1903年(明治36年)6月29日午後5時、全ての才能を開花させることなく24年の短い間生涯を閉じました。

滝廉太郎の代表曲

荒城の月

土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲による歌曲。

1901年(明治34年)に滝廉太郎が中学校唱歌の懸賞へ応募して世に出た作品。

JR九州豊後竹田駅では列車の接近メロディとして使用されており、ドイツ出身のハードロックバンド・スコーピオンズが1978年の来日公演で演奏しています。

他にも2016年のアカデミー賞で13部門にノミネートされ6冠を受賞した「ラ・ラ・ランド」の作中でも使用されました。

 

憾(うらみ)

演奏時間は約2分、滝廉太郎の作品の中では珍しい器楽作品で、死の数ヵ月前に書かれた作品とされています。

憾が書かれた楽譜の余白には「Doctor!Doctor!(医者!医者!)」と走り書きがあったとされており、晩年の滝廉太郎の生命への緊張感を伝えています。

なお「憾」とは物足りなくて心残りを強く感じるという意味です。

 

武島羽衣(たけしまはごろも)作詞・瀧廉太郎作曲による歌曲。

1900年(明治33年)に発表された歌曲集・四季の第一曲として作られたものですが、第二曲・納涼、第三曲・月、第四曲・雪がほとんど知られていないのに対して、花だけが一人歩きし有名になりました。

滝廉太郎はこの曲を発表したときに「日本語の歌詞に日本人が作曲した曲を付けて世に出すことによって日本歌曲の発展に寄与したい」と発言したそうです。

 

滝廉太郎の音楽の特徴

明治時代の日本には西洋文化を大量に導入し、欧米列強に追い付け追い越せが合言葉でした。

その中で多くの西洋音楽が輸入され、それに日本語歌詞がつけられて歌われました。

しかし、日本政府は音楽教育の充実などを目的として日本人によるオリジナル楽曲を必要としており、そのお眼鏡に叶ったのが滝廉太郎でした。

滝廉太郎が作曲した曲は、日本語歌詞が西洋音楽のメロディラインに違和感なく乗るように作られており、日本語と西洋音楽を上手く融合することに成功しています。

このため外国人が滝廉太郎の楽曲を演奏したり、メディアで取り上げたりすることが違和感なく現代でも行われています。

滝廉太郎の楽曲は日本人に馴染むように作られたものですが、結果的には世界で通用するグローバルソングとしての評価を受けることになりました。

 

滝廉太郎まとめ

わずか23歳10ヵ月という短い人生を作曲活動と音楽の勉強に費やした滝廉太郎。

現存する楽曲はわずかに34曲ながら、日本の音楽教育とその後の日本音楽の方向性を示した功績は比類なきものだと言えるでしょう。

いまだに歌われ続ける多くの滝廉太郎の楽曲は、日本だけでなく諸外国で評価され、日本音楽黎明期の代表作とされています。

もし滝廉太郎が24歳足らずで生涯を閉じずに50、60歳と長生をしていたらどのような曲を残し、どのように日本の音楽界をリードしていったのでしょうか?

今ではそれを知ることは出来ませんが、彼の作った歌で心癒され、穏やかな気持ちになれることは現代に生きる数多くの人が経験しているのではないでしょうか。