ボストンマラソンで新記録を出して優勝した山田敬蔵の生涯と、マラソンの師匠・金栗四三との関係や山田敬蔵がモデルの映画『心臓破りの丘』も紹介します。
山田敬蔵とは?
1927年、秋田県生まれ。高等小学校卒業後、満州へ渡り、1946年に復員しました。
その後は駅伝やマラソンで入賞するなど頭角を現し、働きながらオリンピックを目指します。
1952年のヘルシンキオリンピックでは26位と成績は思わしくなかったにもかかわらず、翌年のボストンマラソンでは新記録を樹立。後半追い上げていくスタイルは日本中を沸かせました。
満州での生活
山田は高等小学校卒業後15歳の時に、自ら満州開拓青少年義勇軍に応募します。
満州へ渡り、黒竜江省チチハルで軍事訓練を受けながら開拓を行いました。
もともと体が弱かったにもかかわらず、毎朝、長距離を走らされたり、64キロの距離を軍歌を歌いながら歩かされたりしたそうです。
開拓団には召集は来ない約束だったのですが、18歳の時に召集を受けました。
しかしその後すぐに終戦となり、ハルビンにいたところ関東軍に置き去りにされ、仲間を失いながらも1946年に復員します。
金栗四三との出会い
山田は地元の製材所で働きながら戦後開催された駅伝、マラソン大会に参加し、好成績を残します。
朝日新聞主催の金栗賞朝日マラソンに招待されたときにはじめて金栗四三に会い、本格的な指導を受けるようになりました。
地元企業・同和鉱業に入社、オリンピックを目指す
その後の1950年、22歳の時に山田は地元の企業・同和鉱業に入社しました。
この会社は1936年のヘルシンキオリンピックで100m代表だった佐々木吉蔵が所属していた企業です。
そのため、ある営業所には400mトラックが整備されていたこともあり、山田にとってはうってつけの職場でした。
練習に打ち込み、1952年のヘルシンキオリンピックに出場しますが、残念ながら26位に終わります。
この時、山田はマラソンを辞めようとしますが、金栗は叱咤激励しました。
ボストンマラソンで歴史的記録を打ち出す
1953年、山田はボストンマラソンで世界新記録を出して優勝しました。
2年前に優勝していた田中茂樹の記録を9分上回って、記録は二時間十八分五十一秒という大記録を達成します。
30km地点にある難所・心臓破りの丘という上り坂でスパートをかけた山田は、日本中から応援を受けました。
アメリカでは風に乗ってスパートをかける山田の姿は小柄な風貌と相まって、「転がる木の葉」と評されます。
映画『心臓破りの丘』について
当時は映画全盛期で、山田の「田舎の会社員がボストンマラソンで優勝した」という快進撃にすぐに映画化され、1954年に公開されました。
タイトルはボストンマラソンで山田がスパートをかけたあの難所‘’heart breaking hill‘からとられています。
あらすじ
国民の期待を背にヘルシンキオリンピックに挑んだ秋田鉱山の上田栄三。
しかし記録は、26位と振るわず、メダルには全く手が届きませんでした。
帰国後、上田は、父親を始め友人からも冷ややかな視線を向けられてしまい、落ち込みます。
そんななか寝たきりの祖母の励まし、幼馴染が連れてきた金田監督の激励もあり、再起します。
周りの人に助けられて特訓を続け、補欠ながらボストンへ行くことができました。
そして、最後は出場の機会を得て、念願の優勝を果たすというサクセスストーリーです。
山田敬蔵のその後
山田は高齢になっても生涯現役を掲げてマラソンにも参加し続けました。
81歳の時にフルマラソンからは引退しますが、毎日20キロのトレーニングは続けていたそうです。
エピソード
意外なことに子どものころは運動神経も体力もなく、15歳から過ごした満州では非常に苦労をしたそうです。
訓練では、鉄棒の懸垂は肩まで上がらない、手りゅう弾も遠くに飛ばせない、25キロの土嚢を運ぶこともできない、と散々でした。
しかしゆっくりと追い上げることのできる長距離走だけは誰にも負けなかったそうです。