吉岡信敬とは、明治31年(1898)早稲田中学校に入学後、野球部に籍を置いたのち早稲田大学応援隊を結成し、応援団長として活躍した人物です。
明治42年(1909)になると、スポーツ社交団体・天狗倶楽部に加入しました。
そんな吉岡信敬の生涯や逸話、早稲田大学の応援団長となった経緯や天狗倶楽部との関わりについて解説します。
吉岡信敬の生い立ち
吉岡信敬は明治18年(1885)9月1日、山口県萩市河添村または東京都文京区である東京府小石川区で誕生しました。
明確な出身地は分かっていませんが、小学校に上がるまでは山口県萩市、小学校に上がってからは東京都文京区で住んでいたと考えられています。
名前の正式な読み方は「のぶよし」ですが、「しんけい」と呼ばれることが多く、また本人も「しんけい」と称していました。
早稲田中学に入学
明治31年(1898)早稲田中学校に入学します。
入学後は野球部に籍を置いたとされていますが、野球はあまり上手ではなく、野球部員としてあまり活躍していませんでした。
しかし、応援活動に熱心であった吉岡信敬は早稲田中学校の試合のみならず、早稲田大学の試合の応援にも参加し、応援活動を行っていたとされています。
早稲田大学応援隊を結成
明治38年(1905)早稲田高等予科生となった吉岡信敬は後に早稲田大学学長・高田早苗の秘書となる橘静二、後に朝日新聞記者となる吉田淳とともに早稲田大学応援隊を結成します。
吉岡信敬は結成された早稲田大学応援隊の隊長、橘静二・吉田敦は副隊長に就任しました。
その後、野球を中心に多くのスポーツに応援団として参加し応援活動や場内整理などを率先して行いました。
この頃から、吉岡信敬は早稲田大学の応援団長として「虎鬚彌次将軍」の通称で知られるようになり早稲田大学の一学生でありながら、全国の学生にその名を轟かせることとなります。
また吉岡信敬は中学時代から髭を生やしていたとされ、その容姿や言動からバンカラの代名詞として有名となっていたとされ、下級生からは「髭のおじさん」というあだ名がつけられていました。
早稲田大学応援隊の逸話
明治39年(1906)に行われた早稲田大学と慶應義塾大学の試合において、吉岡信敬率いる早稲田大学応援隊は応援活動を行いましたが、その応援活動が過激すぎたため試合が中止されるといった逸話が残されています。
このことによって早稲田大学応援隊は一部から批判を浴びることとなりましたが、人気は衰えることはなかったとされています。
天狗倶楽部の加入
明治42年(1909)、吉岡信敬の親友であった冒険小説家の押川春浪がスポーツ社交団体「天狗倶楽部」を立ち上げます。
この「天狗倶楽部」とは勝ち負けにこだわらず、スポーツを楽しむという目的で集まった学生によって立ち上げられた団体で、主に野球や相撲などが行われていました。
この「天狗倶楽部」に加入した吉岡信敬は、押川春浪・中沢臨川・水谷竹紫、また後にストックホルムオリンピックに日本代表選手として参加することとなる三島彌彦らとともにスポーツ活動を行います。
文芸活動
また吉岡信敬は「天狗倶楽部」に参加しながらも、親友・押川春浪が主筆を務めた『冒険世界』『武侠世界』や安部磯雄主幹の『運動世界』などの雑誌に原稿を発表するなど文芸活動も行っていました。
天狗倶楽部から距離を置く
その後、吉岡信敬は大正元年(1912)早稲田大学を中退すると志願兵として麻布第一連隊に入営します。
除隊後は読売新聞などの新聞社に勤務するようになりました。
この頃も、吉岡信敬は「天狗倶楽部」に参加していましたが、大正3年(1914)に「天狗倶楽部」を立ち上げた冒険小説家の押川春浪が亡くなってからは、「天狗倶楽部」の活動も弱まることとなったため、吉岡信敬は「天狗倶楽部」と徐々に距離を置いていったとされています。
また『冒険世界』や『武侠世界』においての執筆活動も減っていくこととなりました。
作家・横田 順彌は吉岡信敬が「天狗倶楽部」と距離を置いていったのは、自身の応援活動によって早稲田大学と慶応義塾大学の試合が中止となったことを負い目に感じており、「天狗倶楽部」の構成員のほとんどが野球部員を占めていたため、その両者のパイプ役となった押川春浪が亡くなったため「天狗倶楽部」に居づらくなったのでは。と述べられています。
「天狗倶楽部」から距離を置いて以降、吉岡信敬は表舞台に立つことはありませんでした。
吉岡信敬の最期
その後、昭和15年(1940)12月7日、57歳で亡くなりました。
まとめ
吉岡信敬は早稲田大学応援隊隊長として活躍した人物でした。
そんな吉岡信敬は現在放送中の大河ドラマ「いだてん」において俳優の満島真之介さんが演じられ登場しています。
「天狗倶楽部」の中心メンバーとして登場する吉岡信敬と後にオリンピック選手となる三島彌彦との関係性に注目です。