ストックホルムオリンピック(1912年)について!金栗四三や三島弥彦など日本人も参加!

※当サイトは広告を含む場合がございます

1912年の第五回オリンピック・ストックホルムオリンピックについて解説します。このオリンピックには日本人としては、金栗四三と三島弥彦が参加しました。エピソードと共に紹介します。

ストックホルムオリンピックとは

1912年、スウェーデンのストックホルムで開催された夏季オリンピックです。

1896年以降、近代オリンピックはすでに4回開催され、ストックホルムオリンピックは5回目のオリンピックでした。

アジアからも参加者が集まった最初の大会で、28か国、2407人の選手が参加することになります。

 

日本の初めての参加

参加のきっかけ

国際オリンピック委員会のピエール・ド・クーベルタン男爵から東京高等師範学校の校長・嘉納治五郎にフランス大使館を通じて、オリンピックへの参加要請が届きました。

 

体育教育に熱心だった嘉納治五郎

嘉納治五郎は柔術の各流派をまとめた柔道の創始者であると同時に教育者でもあり、当時は東京高等師範学校(現在の筑波大学)の校長でした。

嘉納自身が幼いころに体が弱く、いじめにあった経験から体を鍛えることが精神をも強くするとの信念を持ち、体育教育に熱心に取り組んでいました。

クーベルタン男爵はこうした嘉納の考えに共感し、国際オリンピック委員会のメンバーに選んだのです。

 

オリンピック委員会の結成

日本がストックホルム大会に参加するためには、まず国内のスポーツをまとめる団体を設立する必要がありました。

それは国際オリンピック委員会がオリンピックに参加する各国にオリンピック委員会の設立を求めていたからです。

そのため、嘉納は1911年7月に大日本体育協会を設立し、大森兵蔵、永井道明、安部磯雄が役員になりました。

そして翌年に迫ったストックホルム大会のためにオリンピック予選会と選手派遣事業に取り組むことになります。

 

1911年のオリンピック予選会

大日本体育協会は、まだ日本ではオリンピックは全く知られていなかったために、予選会開催趣意書をはじめ18ページにも及ぶパンフレットを作制するなど宣伝活動を行いました。

そして、1911年11月に羽田運動場でオリンピック予選会を開きます。

学生以外にも広く参加者を募り、学生71名、そのほかの選手20名の91名が参加しました。

 

本格的な競技場

アメリカで体育学を学んだ大森兵蔵が京浜電機株式会社から毎年の協議会開催を条件に用地を提供してもらえるように交渉し、設計を行いました。

完成した競技場は本格的なもので、一周400メートルのトラックは傾斜がつけてあり、土は砂と粘土を混ぜ、にがりをまいて固めたものでした。

これはスパイクでの走行のほか、足袋や裸足にも対応した柔らかさだったそうです。

二人の日本代表選手

交通費の関係でストックホルムオリンピックの日本代表に選ばれたのは、たった二人だけでした。マラソンの金栗四三と短距離の三島弥彦です。

しかし二人ともオリンピックの参加には難色を示しました。

金栗はマラソンを走ったことがほとんどなく、たまたま走っていい成績が出ただけでこれから特訓しても到底無理と考えていました。

そして三島はエリート一家に育ったので、かけっこごときで海外へ行ってもいいのかと悩みます。

 

高額な自己負担金

また、特に金栗は自己負担金が1800円もかかったために、本心から参加を断ります。

もともと名家出身の三島はともかく、一般庶民の金栗は到底負担できない金額でした。

金栗が大学で勉強ができていたのは、兄が家を継いで働いていたのと理解があってのことだったのです。

金栗は、嘉納から「黎明の鐘になれ」と説得されて参加を決意し、最終的に寄付を募るなどお金をかき集めて実家からの持ち出しを300円で旅費を工面できました。

 

スウェーデンへの旅立ち

1912年5月16日、嘉納会長と大森兵蔵を監督に4名の日本代表選手団は、ウラジオストクからシベリア鉄道を利用してスウェーデンの首都、ストックホルムを目指して旅立ちました。

 

オリンピックの結果

世界の選手たちとは体格と技術面で格差があり、散々な結果になることは最初から覚悟の上での参加ではありました。

金栗はマラソンを熱中症により倒れて途中棄権、三島は100m、200mは予選敗退し、棄権者の出た400mで予選を通過したものの準優勝は棄権するという結果に終わります。

2人とも欧米の選手たちの体格と技術の差に驚き、心身ともに疲れ果てて早々に帰国しました。

嘉納は「国際レベルに追いつくべく、これから努力を重ね、新しくつかんだ知識で後進を指導するのが君の務めだ。四年後のオリンピックを目指そう。」と金栗を激励しました。

 

エピソード

オリンピック初の死者

日本同様、初参加だったポルトガルのフランシスコ・ラザロが熱中症で競技中に倒れ、翌日病院で死亡しました。

彼は、もともとは新聞配達員で国内のマラソンでも優勝経験があるほどの俊足でした。

ストックホルムの気温が40度近くもあり、棄権者が続出していたこともありますが、日焼け止めと発汗防止のために全身にポマードを塗っていたことが原因と言われています。

 

アマチュアリズム

近代五種と十種競技の金メダリストだったジム・ソープは、マイナーリーグでのプレイ経験があったということが後になってからわかり、1913年に金メダルをはく奪、記録が抹消されてしまいました。

クーベルタン男爵の「オリンピックの出場者は、スポーツによる金銭的な報酬を受けるべきではない」とする考え方から1913年にプロを締め出す規則を作ったからです

ジムの場合は、規則が作られる前の出場だったこともあり、その後1983年に名誉が回復されました。