永井道明とは?生涯やオリンピックの逸話、スウェーデン体操や嘉納治五郎との関係性について解説!

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永井道明(ながい どうめい)とは?生涯やオリンピックの逸話、スウェーデン体操や嘉納治五郎との関係性について解説!

永井道明とは「学校体操教授要目」を作成し、当時世界で主流であったスウェーデン体操を日本に普及させた人物です。

また東京高等師範学校、東京女子高等師範学校の教授に就任し学校教育を多く指導していたため、昭和15年(1940)当時の厚生大臣・金光庸夫から学校体育功労者として表彰されました。

そんな永井道明の生涯やについて解説していきます。

永井道明の生い立ち

永井道明は明治元年(1869年)12月18日、水戸藩士の血筋で藩校「弘道館」に勤めていた永井衡敏の次男として茨城県水戸市で誕生しました。

もともと永井家は平安時代に活躍した儒学者・大江国房の末裔であったとされ代々、藩校「弘道館」の師範を行っていたとされる由緒正しき家系でした。

親族には尊王攘夷の先駆者・藤田東湖、藤田幽谷がいるとされています。

由緒正しき家系でしたが、身分は低かったため永井道明を含め10人の子供がいた永井家の生活は苦しいものでした。

永井道明は進学の際、江戸での遊学を希望しました。

しかし永井家は貧しかったため江戸に送るだけで精一杯であったとされています。

そこで永井道明は奨学金を申請しましたが、永井家は小役人であったため、奨学金は使用できず、永井道明は仕方なく地元の茨城師範学校へと進学することとなりました。

 

兵式体操に興味を持つ

茨城師範学校へと進学した永井道明は兵式体操に関心を持ち始めます。

この兵式体操とは、当時文部大臣であった森有礼が主導し、学校教育に導入された軍隊式の体操で、柔軟体操、各個教練、執銃体操、操銃法、部隊教練などが内容とされていました。

この兵式体操に関心を持った永井道明は、熱心に訓練し、学校で行われた運動会で指揮官を任命されるほどであったとされています。

東京高等師範学校へと進学

兵式体操に打ち込む永井道明の姿を見た姉の夫・吉成愼之允は永井道明の江戸遊学を支援し、明治23年(1890)茨城師範学校、永井道明は教師を育成する学校である東京高等師範学校(現在の筑波大学)へと進学することとなりました。

進学した永井道明は、坪井玄道から普通体操の指導を受けていたとされています。

その後、東京高等師範学校を卒業した永井道明は東京高等師範学校附属中学校の助教諭となります。

この時の教え子の中には、後に総理大臣となる鳩山一郎がいたとされています。

東京高等師範学校附属中学校の助教諭となった一方で、永井道明は6週間だけ麻布の歩兵第1連隊に入隊し軍隊経験を積みました。

 

「体操校長」と呼ばれる

その後、明治29年(1896)になると奈良県にある畝傍中学校へと赴任し、明治32年(1899)には校長に就任となりました。

この頃、生徒たちに体操を指導していたとされ、生徒からは「体操校長」と呼ばれるようになったとされています。

その後、翌年の明治33年(1900)には兵庫県の姫路中学校の校長に就任しました。

その4年後の明治37年(1904)日本とロシアの間で日露戦争が勃発します。

この戦争で日本は勝利し、国民は勝利に酔いしれることとなりましたが、この頃から永井道明は日本人の体力の低さなどを知ることとなり、体力をつけるためには体育が必要であると考え始めます。

 

日本の体育業界の混乱

当時日本では、文部省が主体となる普通体操と、陸軍省が主体となる兵式体操が学校教育の場で指導されていました。

そこにスウェーデン体操と呼ばれる体操が、アメリカ留学をした井口阿くりや、ボストンで留学をしていた医師・川瀬元九郎によって日本にもたらされます。

またイギリスへと留学していた坪井玄道が帰国後、日本でヨーロッパのスポーツを普及するなどしたため、日本の体育業界はいったい何を指導すべきなのか分からなくなり、混乱状態となっていました。

 

調査のための留学

そこで文部省は様々な体操を統一するため調査委員会を発足し可児徳を調査員に任命しましたが、普通体操とスウェーデン体操の派閥争いがあったため、統合は失敗に終わりました。

そのため文部省は、日本国外の体育指導を調査するため永井道明を調査員に任命します。

こうして永井道明は姫路中学を辞職し、昭和38年(1963)調査のため日本を発ちました。

日本を発った永井道明はアメリカ、スウェーデンへと渡りスウェーデンの王立中央体操練習所でスウェーデン体操を学びました。

そして明治42年(1967)1月、スウェーデン体操を学んだ永井道明は日本に帰国し、スウェーデン体操の普及に努めます。

その際、スウェーデン体操だけではなく、「ろくぼく」というスウェーデン体操に使用する体操器具も持ち帰ったとされ、日本で普及されることなります。

 

「学校体操教授要目」が制定

帰国後、2回目となる文部省と陸軍省による体操の統合が行われることとなります。

1度目の調査委員には可児徳が任命されていましたが、2度目となる調査員は永井道明が任命されることとなりました。

こうして2度目となる普通体操とスウェーデン体操の統合は、スウェーデン体操を本場で学んだ永井道明が陸軍省を説得し、大正2年(1913)に日本初の「学校体操教授要目」が制定され、その後、日本ではスウェーデン体操が主流となりました。

その後、東京高等師範学校、東京女子高等師範学校の教授に就任します。

ストックホルムオリンピックの参加

永井道明が帰国した同じ年、嘉納治五郎が東洋で初めてIOC(国際オリンピック委員会)の委員に任命されました。

その翌年には国際オリンピックがストックホルムオリンピックに日本も参加するよう要請し、IOC委員会の嘉納治五郎はオリンピック実現に向け奔走することとなります。

 

オリンピック実現に向け奔走

日本にとって初のオリンピックの参加であり、これほど名誉あることはなかったのですが、当時の日本はまだスポーツに関して理解が乏しく、嘉納治五郎が日本オリンピック委員会の設置を政府に要請するも、政府はこれを拒否していました。

政府の協力を得られなかった嘉納治五郎は大日本体育協会の設立と日本オリンピック委員会を設置します。

永井道明もこの大日本体育協会の設立に関わっていたとされ、永井道明、大森兵蔵、安部磯雄の3人は大日本体育協会の総理事に就任し、嘉納治五郎とともにオリンピック実現に向け奔走することとなりました。

 

金栗四三と三島弥彦が日本代表に

その結果、長距離走者の金栗四三と短距離走者の三島弥彦が日本代表と選ばれることとなり、明治45年(1912年)7月6日日本はストックホルムオリンピックに参加することができました。

 

可児徳らと対立

永井道明はスウェーデン体操を日本に普及し、日本初の「学校体操教授要目」の制定を主導しましたが、普通体操やスポーツ派の嘉納治五郎や可児徳、坪井玄道などと対立するようになり、派閥争いで負けた永井道明は東京高等師範学校から排除されることとなりました。

そのような中、旧高松藩松平家の松平賴壽が東京で本郷中学校を建設することとなり、永井道明はその全権を任され、そのため永井道明は大正11年(1922)に東京高等師範学校を辞め、本郷中学校初代副校長に就任しました。

 

スウェーデン体操の排除

永井道明は副校長として指導を行う傍ら、「大日本体育同志会」を設立し、スウェーデン体操の巻き返しを図りました。

しかし、大正15年(1926)に「学校体操教授要目」は改正され、この改正によってスウェーデン体操は大幅に排除されることとなり、改正以降スポーツは「遊戯」ではなく「競技」として位置付けられ、また可児徳や嘉納治五郎、坪井玄道などが推していた普通体操が体育の主流となりました。

大正15年(1926)以降も「学校体操教授要目」は改正されることがありましたが、まず完全な軍人をつくることが、国民教育である。といった軍事思想を持った永井道明は、体育を軍事利用しようとするかもしれないとされ、文部省は永井道明を「学校体操教授要目」の改正メンバーにいれなかったとされています。

 

永井道明の最期

その後、永井道明は体育業界から遠のきましたが、永井道明が体育業界に与えた功績は大きく、その功績が称えられ昭和7年(1932)には教え子の鳩山一郎、昭和15年(1940)には当時の厚生大臣・金光庸夫から学校体育功労者として表彰、また全国の体育関係者が永井道明の功績を称え「永井体育館」を建設し、永井道明は、その体育館を寄付されました。

この頃になると永井道明は70歳を超えていたため、同年に本郷中学校を退職しましたが、2年後の昭和17年(1942)に貧血症で倒れ、その後、昭和25年(1950)12月13日に悪性の貧血症によって83歳で亡くなりました。