森有礼とは?体育や運動会、学校令や暗殺、また名言について解説!

薩摩藩士の五男として誕生した森有礼は漢学、英学を学んだ後、イギリス・アメリカへと渡りました。

明治維新後に帰国すると啓蒙活動を目的とした明六社を結成します。

その後は私塾・商法講習所(一橋大学の前身)を開く、第1次伊藤内閣の下はで初代文部大臣に就任するなどの活躍を見せます。

文部大臣に就任した森有礼は教育政策に力を注ぎ、学校令や学位令などを発令しました。

そんな森有礼の生い立ちや経歴、学校令や運動会のきっかけとなった兵式体操、また名言について解説します。

森有礼の生い立ち

森有礼は弘化4年(1847年)8月23日、現在の鹿児島県鹿児島市春日町である薩摩国鹿児島城下春日小路町の薩摩藩士・森喜右衛門有恕と母・阿里の五男として誕生しました。

兄弟には長兄・喜藤太有秀、次兄・喜八郎(青山良顕)、三兄・三熊(夭折)、四兄・喜三次(横山正太郎安武)がいます。

 

漢学、英学を学ぶ

安政7年(1860年)頃、13歳の森有礼は造士館で漢学を学びます。

4年後の元治元年(1864年)には藩の洋学校であった開成所で英学講義を受講しました。

 

イギリスへと渡る

慶応元年(1865年)薩摩藩士で後に実業家として活躍する五代友厚らとともにイギリスへと密航し、ロンドンにて長州五傑と呼ばれる井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)と出会います。

 

長州五傑とは

長州五傑とは文久3年(1863年)から長州から清国経由でヨーロッパに派遣され留学した長州藩士の、井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)の5名を指す言葉です。

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アメリカへと渡る

その後、ロンドンなどを旅した森有礼はイギリスの作家であるローレンス・オリファントから誘われアメリカへと渡りました。

アメリカではローレンス・オリファントが信奉していた新興宗教家のトマス・レイク・ハリスらとともに生活を送りました。

その際、森有礼はキリスト教について深く興味を示していたとされています。

明六社を結成

森有礼がアメリカで生活を送っている時、日本では明治維新が行われていました。

明治維新後の明治6年(1873年)7月に帰国した森有礼は福澤諭吉(蘭学者・教育者)・西周(哲学者・教育者)・西村茂樹(教育者)・中村正直(教育者)・加藤弘之(教育者)・津田真道(政治家)・箕作麟祥(洋学者・法学者)らとともに明六社を結成します。

明治維新後、アメリカから帰国した森有礼はアメリカでの生活を経験し、日本の軍事力向上のためにはまず、人材育成が必要である、国民1人1人が知的に向上しなければならないと考えていました。

そこで森有礼は啓蒙活動を目的とした明六社を結成したのでした。

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事実上の解散

翌年の明治7年(1874年)には機関誌『明六雑誌』を発行します。

この雑誌は啓蒙活動の指導的役割を果たすこととなりましたが、明治8年(1875年)名誉毀損に対する処罰を定めた讒謗律・新聞紙条例が施行されたことにより機関誌の発行は廃刊に追い込まれ、これによって明六社は事実上解散となりました。

しかし、明六会と名を変え活動は啓蒙活動は続けられることとなります。

 

私塾・商法講習所を開く

明治8年(1875年)森有礼は私塾・商法講習所(一橋大学の前身)を開きます。

 

日本最初の契約結婚

明治8年(1875年)広瀬常と結婚します。

この際、福沢諭吉が証人を務めました。

2人の結婚には婚姻契約書が用いられました。

この婚姻契約書は「それぞれが妻、夫であること。破棄しない限り互いに敬い愛すこと。共有物については双方の同意なしに貸借売買しないこと。」3条から成り、森有礼と広瀬常は日本で初めて契約結婚をした夫婦であるとされています。

2人の間には3人の子供が誕生しましたが、結婚11年目にして妻・常の素行が原因となり、2人は離婚しました。

文部大臣に就任

明治18年(1885年)、森有礼は第1次伊藤内閣の下で初代文部大臣に就任します。

文部大臣となった森有礼は東京高等師範学校(現在の筑波大学)を「教育の総本山」と呼び、日本の教育政策に携わりました。

また森有礼は良妻賢母を理想像として掲げ行われる教育である「良妻賢母教育」こそを国の政策にすべきと声明し、これを基に「生徒教導方要項」を作成し、全国の女学校と高等女学校に配布しました。

 

運動会開始のきっかけ

明治18年(1885年)、森有礼は全国の小学校、中学校の体育に兵式体操を導入します。

兵式体操とは柔軟体操、各個教練、執銃体操、操銃法、部隊教練などからなるもので、森有礼はその成果を公表する機会として運動会を施行しました。

日本の運動会は兵式体操の成果を発表するために行われたものでした。

 

学位令を発令

明治19年(1886年)には学位令を発令します。

 

学位令とは

学位令とは明治20年(1887年)から明治22年(1889年)までに出された勅令です。

明治20年(1887年)の最初に発行された学位令は「学位を、博士及び大博士の2等とする」「博士の学位は、法学博士、医学博士、工学博士、文学博士、理学博士の5種とする」「博士の学位は大学院に入り定規の試験を経た者、大学院に入り定規の試験を経た者の同等以上の学力のある者に文部大臣において授与する」「大博士の学位は、文部大臣において、博士の会議に付し、学問上特に功績ありと認めた者に、閣議を経てこれを授ける」などの5か条からなるものでした。

学校令を発令

また森有礼は教育令に代わる学校令を公布にも携わりました。

 

学校令とは

学校令とは帝国大学令・師範学校令・小学校令・中学校令などの法令をまとめてさす言葉で、教育機関の再編成が行われました。

小学校、中学校、師範学校については尋常小学校・高等小学校の2段階に分ける、小学校の尋常小学校については修業期間を義務教育とするなど細かい再編成があげられます。

 

再婚

明治19年(1886年)森有礼は岩倉具視の五女・岩倉寛子と再婚します。

2人の間には明(森有礼にとって三男)が誕生しました。

 

暗殺される

明治21年(1888年)から始まった黒田内閣でも森有礼は文部大臣に就任しました。

しかし明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法発布式典に出席するため官邸を出た際、国粋主義者である西野文太郎に短刀で刺され怪我を負います。

応急手当を受けるも傷が深く、森有礼は翌日の明治22年(1889年)2月12日、43歳で亡くなりました。

 

暗殺された原因

当時、ある大臣が伊勢神宮を訪れた際、社殿にあった簾をステッキでどけたうえ、土足厳禁の拝殿を靴のまま上がった。と新聞で報じられました。

ある大臣と記されていますが、この大臣は欧化主義者であった森有礼なのではないかと疑惑が持たれるようになります。

この疑惑は伊勢神宮事件と呼ばれるようになりますが、事実であるかどうかは分かっていません。

しかしこの事件が森有礼が暗殺される原因となりました。

森有礼の名言

人が結婚すれば、権利、義務が2人の間に生じて、両者平等である。2人の間の権利と義務とは、お互いに助け合い、保護し合う道をいう。すなわち夫は、扶助を妻に要求する権利を持つと同時に、妻を保護する義務がある。また妻は、保護を夫に要求する権利があり、また夫を扶助する義務がある。この理によらないで結婚するものは人間の結婚とはいえない。

 

まとめ

森有礼の生い立ちや経歴について解説いたしました。

漢学、英学を学びイギリス、アメリカへと渡った森有礼は、明治維新後、日本に帰国すると啓蒙活動を目的とした明六社を結成します。

その後は私塾・商法講習所(一橋大学の前身)を開き、第1次伊藤内閣の下はで初代文部大臣に就任しました。

学位令、学校令を発令するなど日本の教育活動に携わった森有礼は2021年に放送予定の大河ドラマ「青天を衝け」に登場することが予想されています。