橋本左内(はしもとさない)は、幕末維新の功労者である西郷隆盛から「同輩としては橋本左内を推す」と、同世代ではもっとも優れた男だと認められた越前福井藩出身の思想家で幕末の志士です。
15歳にして自己啓発本「啓発録」を書き残し、「学問は生涯を通じて心掛けねばならない」と、学ぶことの大切さを語った橋本左内は、福井藩主・松平春嶽の右腕としてわずか25年の人生を駆け抜けました。
その生い立ちから振り返り、橋本左内という人物について、名言なども考察しつつ見つめ直してみましょう。
橋本左内の生い立ち
橋本左内は1834年4月19日に越前福井藩(福井県福井市)で父・長綱、母・小林静境の娘の間に長男として生まれました。
10代にして神童の呼び声高く、「三国志」を完全読破、医学校で漢方医学を、吉田東篁(よしだとうこう)の塾では儒学を学び、15歳の時には「啓発録」なる自己啓発を記した本を書き、福井藩きっての天才と呼ばれます。
名声が広がり、若くして藩政改革を実行
1849年に大坂へ出て、適塾で医者の緒方洪庵(おがたこうあん)から蘭学や西洋医学を学び、3年後には父の後を継いで藩医となりますが、その後は江戸に出て杉田成卿(すぎたせいけい・杉田玄白の孫)から再び蘭学を学びます。
この頃に薩摩藩士・西郷隆盛,小浜藩の儒学者・梅田雲浜,熊本藩の儒学者・横井小楠らと交流を結び、水戸藩の著名な儒学者・藤田東湖(15代将軍慶喜の父・斉昭の腹心)に認められます。
そしてその名声はついに福井藩主・松平春嶽の耳にも入り、藩医から藩主側近となる御書院番に抜擢され、福井藩の行政に関与する立場となり、西洋の学門や技術の導入を訴え、藩政改革にも着手します。
橋本左内、わずか2年の表舞台
若干24歳にして福井藩の藩校・明道館の学監心得(校長的な役職)となり、この時代の中心的な学門である儒学だけでなく蘭学や和算も教えて生きた学門の習得の重要性を説きました。
一橋慶喜を擁立を画策
日米修好通商条約締結を望むアメリカの圧力が強くなり、13代将軍家定の後継問題が重要視されるなかで、松平春獄はますます橋本左内を重用し、左内は松平春獄の懐刀として活躍します。
一橋慶喜を14代将軍に推す、一橋派の中心人物であった春獄の意をうけた橋本左内は、江戸や京都で幕府や朝廷の有力者と会い、これらを説得して慶喜の擁立を画策します。
安政の大獄で処刑される
しかし、14代将軍には大老・井伊直弼の推す紀州藩の徳川慶福(のちの家茂)に決定し、日米修好通商条約は朝廷の許可なく調印されてしまいます。
これらに反対していた松平春獄は、井伊直弼に隠居させられた上に謹慎処分となります。
春獄の腹心であった橋本左内も井伊直弼が行った安政の大獄によって捕らえられ、当初は遠島(えんとう・離島に送られる刑罰)される予定でしたが、井伊直弼の手によって、武士でありながら、切腹ではなく斬首に処されてしまいました。
享年25歳、あまりにも若すぎる死でした。
橋本左内の啓発録について
橋本左内が15歳で書いた「啓発録」は、己を戒め、どのようにしたら立派な武士、人間になれるかを書き綴った自己啓発の指針です。
内容は5項目からなり、要約した内容を掲載しておきます。
①「稚心(ちしん)を去る」
稚心(子供のままの気持ち)から卒業して父や母に甘えることなく勉強や習い事を熱心にやらなければならない。
②「気を振るう」
ここで言う気とは人に負けまいと思う心のことで、努力せず負けるということは恥ずかしいことであり、気を奮い起こして負けない決意を忘れぬことが大切なのだということ。
③「志を立つ」
生き方の決意を固めるということで、
常に自分たちをかえりみて、足らないところこそ努力することが大切である。
④「学に勉む」
勉学とは書物を読んで知識を深めることだけではなく、忠孝の精神を養い、文武の道を修行することが大切である。
⑤「交友を択(えら)ぶ」
自分が交際する友人には、益友(えきゆう)と損友(そんゆう)があり、益友(えきゆう)には積極的に交わりこれを大切にし、損友(そんゆう)がいたら正しい方向へ導いてやらねばならない。
橋本左内と西郷隆盛の関係
橋本左内と西郷隆盛が初めて出会ったのは1855年の江戸だったと言われています。
初対面の時はおたがいにそれほどの印象を持つことはなかったようですが、13代家定の将軍経嗣問題で西郷隆盛の主君・島津斉彬と橋本左内の主君・松平春獄が一橋慶喜を推した一橋派だったため、二人は協力しあって主君の推す一橋慶喜を将軍にすべく奔走します。
幕閣対策、朝廷工作にと二人は奮闘しますが、大老・井伊直弼によってその野望は打ち砕かれてしまいます。
安政の大獄によって西郷隆盛は鹿児島で自殺をはかり、命は取り止めますが奄美大島に身を隠し、橋本左内は江戸で斬首されます。
佐内を高く評価していた西郷隆盛
左内の悲報を聞いた西郷隆盛は大久保利通へ送った手紙にその心情を綴っています。
橋本迄死刑に逢い候儀案外、悲憤千万堪え難き時世に御座候
橋本左内が死刑になるとは、悲しみも憤りも限界を越えるほどの時代になってしまったという意味です。
西南戦争で西郷が自刃。佐内の手紙と西郷隆盛
1877年、西南戦争に敗れた西郷隆盛は鹿児島で自刃します。
西郷の遺品の中に将軍経嗣問題で奔走した時の西郷宛の左内からの手紙が入っており、西郷は死の直前まで肌身離さずその手紙を持っていたのです。
西郷隆盛にとって橋本左内は一生の友であり、忘れ得ぬ相棒だったのでしょう。
橋本左内の名言
橋本左内は短い25年の生涯で多くの言葉を残しています。ここではその一部を紹介しておきます。
名言①
名言②
名言③
名言④
名言⑤
どのようなことに対しても真摯に向き合い、努力することを説き続け、自分も実践し続けた橋本左内らしい言葉が並んでいます。
橋本左内の評価
この世に生を受けてわずか25年、世に知られて2年でこの世を去った橋本左内。彼に対する評価はどのようなものだったのでしょうか。幕末の有名人からの佐内に対する評価を紹介します。
緒方洪庵(適塾を開いた蘭学者)
川路聖謨(幕末の開明的な旗本)
水野忠徳(幕末の開明的な旗本)
当時一流の人物からも非常に高い評価
その評価は橋本左内を知る人すべてがその人柄を絶賛し、愛されていたようです。歴史にもしもはありませんが、橋本左内が死ななければ、違った明治維新があったのかも知れません。