文武両道の俊傑(才知などが常人よりすぐれていること)、幕末の薩摩藩でこう呼ばれた男がいました。
その男の名前は有馬新七(ありましんしち)、薩摩藩の過激尊皇派のリーダー格で井伊直弼暗殺や京都焼き討ちなどを画策するも実行までには至らず、寺田屋で同じ薩摩藩の藩士に討たれて生涯を閉じます。
有馬新七が葬られたお墓には西郷隆盛の思いが籠った石碑が建てられ、その人柄が偲ばれます。
2018年NHK大河ドラマ「西郷どん」の中でもキーマンの一人として描かれる有馬新七は時代を進ませるのを急ぐあまり、時代が付いて来れず、時代が彼に追い付く前にこの世を去ってしまいました。
彼の38年の生涯とはどのようなものだったのでしょうか?誕生から寺田屋事件までを追いかけてみました。
有馬新七の生い立ち
文政8年11月4日(1825年12月13日)薩摩藩郷士(城下士よりも格下の武士)・坂木四郎兵衛の子として薩摩国日置郡伊集院郷(現在の鹿児島県日置市伊集院町)で生まれたのち、父の坂木四郎兵衛が城下士である有馬家に養子として入ったため、新七も有馬姓となりました。
叔父の坂木六郎から真影流(直心影流)の剣術を学び、14歳で山崎闇斎(やまざきあんさい・江戸時代前期の儒学者、神道家)を創始者とする崎門学派を学びます。江戸に出仕すると山口菅山の門下となり崎門学派を極めました。
安政4年(1857年)に33歳で薩摩藩邸学問所教授となり、その4年後には薩摩藩藩校である造士館の教師となりました。
尊皇攘夷活動への目覚め
勉学では常に薩摩藩のトップクラスにいた有馬新七でしたが、江戸に出仕した頃から尊皇攘夷派の志士との交流が増え、特に水戸藩の過激派志士との交流が盛んで、井伊直弼暗殺(桜田門外の変)への薩摩藩士の参加を画策しますが、薩摩藩同士の同意が得られず、途中で脱盟して水戸藩士たちを裏切る結果となります。
井伊直弼暗殺に不参加となり尊皇攘夷の動きから後退した感じとなった有馬新七が属する薩摩藩尊王派は、島津久光の上洛を機に一気に倒幕へと動こうとしますが、島津久光にその考えはなく、それどころか過激派尊皇攘夷志士の始末を朝廷より命じられます。
これに憤慨した薩摩藩尊皇攘夷派は公武合体派の関白九条尚忠(くじょうひさただ)と、これに同調していた京都所司代酒井忠義(さかいただよし)を襲撃し、これを契機として薩摩藩を倒幕側へ付けようとしますが、島津久光はその会合場所の京都伏見・寺田屋に上意討ちの意を含んだ鎮撫使(ちんぶし)を送り込みます。
寺田屋事件の顛末
当初は双方ともに代表による話し合いでの決着を図りますが、話し合いは平行線のまま何時間も続けられ、藩邸への同行を求める鎮撫使の一人、道島五郎兵衛(みちじまごろべえ)のイライラが頂点に達し、抜刀すると「上意」と叫びながら田中謙助の頭部を斬り、これをきっかけに薩摩藩士での同士討ちが始まってしまいました。
道島の不意討ちに激昂した有馬新七はこれに斬りかかり、何度か渡り合ううちに刀を折ってしまいます。
刀を捨て道島に組かかった有馬は道島を壁に押し付けると近くにいた橋口吉之丞(はしぐちきちのじょう)に「おい(俺)ごと刺せ」と叫び、これに応えた橋口は有馬の背中から道島目掛けて刀を突き刺し、有馬ともども道島を刺し殺しました。
この寺田屋の戦闘で双方合わせて7名が死亡、重傷3名、軽傷4名でしたが過激派側の重傷者、田中謙助・森山新五左衛門が切腹させられたため、合計9名が命を落とす結果となりました。
有馬新七と西郷隆盛の関係
西郷隆盛よりも三歳年上になる有馬新七でしたが、薩摩藩尊皇攘夷派の中心として活動していた精忠組では西郷は中心メンバーとして存在し、有馬新七は精忠組の中でも過激派のリーダー格でした。
精忠組が薩摩藩のなかでも無視できない存在になってくると、島津久光はこれを藩政に取り込もうとして、大久保利通や吉井友実(よしいともざね)らを藩の役職に就けます。
西郷隆盛が奄美大島に潜伏している間に精忠組は島津久光に取り込まれた大久保利通らの穏健派とあくまで尊皇攘夷を貫こうとした過激派に分裂した状態になります。
過激派は井伊直弼暗殺、京都焼き討ち、孝明天皇奪還などを計画、それを実行に移そうとしますが、奄美大島から帰ってきた西郷隆盛がこれを知ると島津久光の命令を無視して、過激派の説得に当たりますが、西郷の命令無視に激怒した島津久光は西郷隆盛らを捕縛、帰藩させます。
その後、寺田屋事件が勃発し薩摩藩士が同士討ちする悲劇が起きますが、もし西郷隆盛が帰藩させられなければ、違う決着となっていたかもしれません。
有馬新七の墓
寺田屋事件で死亡した薩摩藩過激派攘夷志士6名(有馬新七、橋口傳蔵、柴山愛次郎、弟子丸龍助、橋口壮介、西田尚五郎)、重傷を負って後に切腹させられた2名(田中謙助、森山新五左衛門)、これに病気療養のため寺田屋へ行くことが出来ず京都薩摩藩邸へ残っていて帰藩命令を受けるも承服せず切腹した山本四郎の合計9名は現在、京都市伏見区鷹匠町の大黒寺に葬られています。
上意討ちのため大罪人扱いで士分を剥奪された有馬新七らでしたが、2年後に恩赦によって士分に回復、大黒寺に手厚く葬られました。
西郷隆盛は墓碑銘を直筆で書き、私費で石柱を建立、今も「伏見寺田屋殉難九烈士之墓 西郷隆盛先生建立之書亦直筆也」の文字が寺田屋の悲劇を現代に伝えています。
有馬新七の子孫
寺田屋事件の前に死の予感があったのか、有馬新七は罪が及ぶのを恐れて妻・ていと離別、長男・幹太郎には梅田雲浜の書を渡したそうです。
有馬新七が上意討ちされたため、有馬幹太郎は士籍を剥奪されますが、恩赦によって回復し戊辰戦争にも出仕、御親兵創設にも参加しました。
有馬幹太郎は後の海軍大将・川村純義(かわむらすみよし)の推挙によって海軍へ入り、米国へも留学し将来を嘱望されていましたが27歳の若さで死去、有馬新七の直系子孫は絶えました。
西郷どんの新七役は誰?
2018年NHK大河ドラマ「西郷どん」でも有馬新七はキャスティングされています。
演じる俳優は増田修一朗(ますだしゅういちろう)さん。
NHKの時代劇には何度も出演経験があり、2014年の大河ドラマ「軍師官兵衛」では大友義統を演じています。
今回が2度目の大河ドラマですが、時代劇出演も豊富な俳優さんなのでどのようなイメージの有馬新七を作るのか非常に楽しみです。
特に寺田屋事件での最後の「おい(俺)ごと刺せ」のシーンがどのようになるのか大変興味が湧きます。
さいごに
薩摩藩きっての俊才で、剣の腕前も一流だった有馬新七。
西郷隆盛や大久保利通などの後に薩摩藩を動かす人物とも親しく、寺田屋事件での暴発がなければ、命を落とすこともなく戊辰戦争や明治新政府でも活躍していたかもしれません。
しかし、彼は寺田屋で斬られ人生を終えます。
自分の信念のままに生きて倒幕の志に燃えるも、その途中で同士の刀によって倒れることになった有馬新七。しかしその思いは多くの薩摩藩士によって受け継がれ、彼の死から6年後に明治元年がやって来ます。
彼の死もまた明治新政府が誕生するために必要な事象だったのかもしれません。