新撰組の一番組組長で「天才剣士」として恐れられた沖田総司(おきたそうじ)は、病で早世したこともあり色白で華奢なイメージと剣客のギャプが興味を掻きたてられ、新撰組でも土方歳三と並ぶ人気者です。
沖田総司は早世しているので妻がいたのか、子孫が残されているのかなど気になるところであります。
また美少年と言われ刀を構えた写真も残されているようですが、実は本人ではないと言われており、沖田総司とされている写真の人物は誰なのでしょうか。そして女説などもあるようですが、本当にそんな話が存在するのでしょうか。
沖田総司の人生とはどのようなものだったのかを振り返りながら、真相を詳しく説明していきます。
沖田総司の生涯
幼くして剣術の才能を見出され剣術人生を歩み出す
沖田総司は、生まれた年が天保13年(1842年)または天保15年(1844年)の2つの説があり、生まれた日付も夏というだけで詳細な記録がありません。
陸奥国白河藩藩士足軽頭・沖田勝次郎(おきたかつじろう)の嫡男として、江戸の白河藩屋敷(現・東京都港区西麻布)で生まれたとされています。
9歳の頃に大人に剣術で勝った事がきっかけとなり、江戸市谷にあった天然理心流試衛館・近藤周助(こんどうしゅうすけ)の内弟子となりました。
12歳の時には、白川藩剣術指南役に剣術で勝ったほどで、19歳の時は試衛館塾頭を務めるまでになります。
近藤勇と共に浪士組として京都残留
文久3年(1863年)幕府は将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)の上洛警護のために「浪士組」の募集をします。
沖田総司も、近藤勇(こんどういさみ)、土方歳三(ひじかたとしぞう)など試衛館の門人と共に浪士組に参加し京へ上洛しました。
しかし、浪士組を主導していた清河八郎(きよかわはちろう)が、尊皇派と通じており浪士組の真の目的は朝廷に尊皇攘夷の志を建白することであると宣言し建白書を提出します。
この事で、浪士組の内部は即刻江戸へ帰還して攘夷運動をしたい清河八郎と、近藤勇ら試衛館派、芹沢鴨(せりざわかも)率いる水戸派に分かれて対立分裂したのです。
結局、京都残留を唱えた近藤や芹沢ら24人は京都守護職会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)の保護下に置かれることとなり、京に残留して「壬生浪士隊」を結成することとなりました。
近藤勇を慕い同行してきた沖田総司も、副長勤筆頭となり京都市中の警護に就く事となったのです。
一番組組長として局長の信頼厚く難任務を担う
沖田総司本人は尊王や佐幕には拘りがなく、剣術以外では笑顔を見せて子供と戯れるほどまだまだ幼子心の残る少年であったようですが、八月十八日の政変後、新撰組が正式に発足すると、一番組組長となり近藤勇の元で剣術手腕を発揮していきます。
この後、沖田総司率いる一番組は重要かつ難題任務を担って職務を遂行していくのですが、最初の重要任務となったのが、初代新撰組局長・芹沢鴨(せりざわかも)の暗殺です。
この芹沢鴨暗殺により近藤勇が新選組局長に就任し、土方歳三は副長となり新たな新撰組を構築します。
その後も、大坂西町奉行所与力・内山彦次郎(うちやまひこじろう)暗殺など剣術の腕を活かし新撰組一番組組長として活躍していきました。
新撰組最大の大仕事「池田屋事件」
京の治安維持に邁進する新撰組は、捜査の中で中川宮邸放火・佐幕派大名の殺害などの計画を知り、すでに京都市中に多数の計画実行の志士が潜伏しているという情報の元、新撰組は計画のグループ壊滅の為に四国屋と池田屋に分かれて突入します。
局長・近藤勇と沖田総司らが担当である池田屋では、多数の尊王攘夷派の志士が集まっていました。
この突入と襲撃は熾烈を極め、沖田総司も奮闘しますが、この時すでに沖田総司の身体を蝕んでいた肺結核の吐血が起こり戦闘中に昏倒してしまいます。
結局、新撰組の応援や土方歳三の参加などで近藤勇と沖田総司らは突入・制圧に成功し、新選組の名を京の町に轟かせることとなりました。
この事件は後の世まで語り継がれるほどの大事件で「池田屋事件」と呼ばれています。
沖田総司の最後
沖田総司の病はじわじわと身体を蝕み、禁門の変に参加して以降は徐々に第一線で活躍することが出来なくなっていきます。
沖田総司の病は悪化の一途を辿るも、倒幕と言う時代の流れは止まらず慶応3年(1867年)ついに将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が政権返上を上奏、大政奉還が成立し徳川幕府と言う時代が終わりを告げるのです。
大政奉還後、戊辰戦争へと突入し新撰組も旧幕府軍に従い鳥羽・伏見の戦いに参戦する事となりますが、病の重い沖田総司は鳥羽・伏見の戦いには参加できず、神田和泉橋の幕府医学所に入院します。
しかし、幕府体制が終焉を迎え、幕府医学所も閉鎖され以後は幕府の医師・松本良順(まつもとりょうじゅん)により千駄ヶ谷の植木屋に匿われ療養するのですが、明治元年5月、慕っていた近藤勇の斬首を知らされぬまま沖田総司は肺結核でこの世を去りました。
出生の年月が不明瞭な為に享年に諸説あり、22歳、24歳、27歳の3説存在します。
沖田総司の刀
①加州清光(かしゅうきよみつ) 代は不明
池田屋事件の凄まじい戦闘で加州清光の帽子(刀の先)が折れ、沖田総司はこの加州清光を鍛冶屋に持っていき修復を試みましたが、修復不可能ということで返却された記録が残されています。現存していません。
②大和守 安定(やまとのかみ やすさだ)
近藤勇の愛用する虎徹に似ていたとされ、近藤勇を慕っていた沖田総司は、虎徹にとてもよく似た大和守安定を差していたと言われていますが現存していません。
③菊一文字則宗(きくいちもんじのりむね)
この刀は子母澤寛(しもざわかん)の伝記の一説により広まっただけで、当時としても国宝級の刀なので沖田総司が持っていたというのはフィクション扱いとされています。
沖田総司の子孫
沖田総司は早世しており妻もおらず、あまり遊郭通いも好きではなかったそうで子を残していません。しかし、沖田家は沖田総司の姉のミツの血筋として現代も脈々と受け継がれています。
現在沖田家の子孫で情報が解る人を紹介します。
沖田要(おきたかなめ)
沖田総司の姉、みつの孫で沖田総司の肖像画のモデルとなった人物です。
沖田哲也さん(おきたてつや)
沖田総司の姉、みつの曾孫・行政学者で明治大学政経学部名誉教授です。
阿野典子さん(あののりこ)
新撰組の子孫が一同に集う雑誌の企画に参加していた沖田家7代目・阿野典子さん。
祖父母から沖田総司が人を殺めているのであまり沖田家の子孫であることを言わないようにと言われていた事から、20年ほど公の場には参加しなかったそうす。
現在は介護の職場で活躍されています。
沖田総司の写真やイケメン説について
沖田総司は出生と同じく、実在の人物像も真相がわかっていません。
色白で小柄というのは沖田家の人々の言葉であり、仲間やその後の元新選組の証言者の中では、色黒のヒラメ顔などと言われている事もあり、実在する写真が残されていないので本当にイケメンだったかどうか確定する答えはいまだ見つかっていないのです。
肖像画について
沖田総司の肖像画と言われる物は、姉のミツが弟の沖田総司に似た孫をモデルにして沖田総司亡き後に描かせたものです。
本やネットで出回っている刀を持った少年の写真も大手出版社が表紙に使ったことが拡散の元だと思いますが、これは有名なイラストレーターが書いた絵で、精巧な写真コラージュです。
沖田総司の女説
沖田総司の女説は存在しませんが、沖田総司が女だったらという設定でつかこうへい作「幕末純情伝」という小説があります。
土方歳三、坂本龍馬などが登場する恋愛時代劇に仕上がっていて、演劇、映画化され映画では当時人気絶頂だった牧瀬里穂(まきせりほ)さんが沖田総司役で好演しました。