家紋というのは日本に根付いた紋章文化ですが、伝統的な紋でも4000種以上あり現在確認できているだけでも20000種あるとされています。
もちろん、戦国時代にも盛んに使われ褒美の対象であったり、旗印・武具などに好んで着けられました。
織田信長(おだのぶなが)にも有名な家紋が存在します。
なんとなく「木瓜紋」が浮かんでくると思いますが、実は織田信長には複数の家紋が存在していました。
今回は、織田信長の複数の家紋の読み方や、由来、意味など織田信長の使用した複数の家紋について詳しく説明していきます。
織田信長の家紋
寛政年間、江戸幕府が編修した大名や旗本の家譜集「寛政重修諸家譜」(かんせいちょうしゅうしょかふ)という書物が存在します。
織田家は織田信長次男・織田信雄(おだのぶかつ)が大坂冬の陣の直前に徳川方の大名となり、織田信雄の血筋のみ子孫が徳川家大名・旗本として明治の廃藩置県まで存続しているのです。
江戸時代徳川家の家臣である織田家なので、「寛政重修諸家譜」にも家にまつわる詳しいことを報告する義務があり、その中に家紋の記述も存在していて7つあることが確認されています。
「寛政重修諸家譜」で確認できる織田家・織田信長の家紋を一つ一つ解説していきます。
①織田木瓜紋(おだきうりもん)
織田信長が使用した家紋としてドラマや映画などで現代人にもよく知られ、織田信長の定紋とされました。
木瓜紋は日本でも多く使われる五大紋の一つで、瓜を真横で輪切りにした模様が鳥の巣の卵に見えるなどの理由から子孫繁栄を表す紋だと言われています。
織田信長がこの紋を使用するようになった由来は、織田信長の父・織田信秀(おだのぶひで)時代に尾張守護の斯波氏(しばし)から受け継いだとされていますが、斯波氏が家紋にしていたのは桐と二引両なので、別の資料などから越前・朝倉氏から譲り受けたという説が現在は有力視されています。
②永楽通宝紋(えいらくつうほうもん)
この紋も現代人には戦国時代物の戦シーンなどの旗印に描かれているので良く知られている紋です。
永楽銭は室町時代に日明貿易によって中国から大量に輸入され、江戸初期まで実際に流通していました。
織田信長が気に入って使っていたと思われ、黒田官兵衛(くろだかんべえ)・仙石秀久(せんごくひでひさ)など数名の家臣にこの紋を与えています。
③五三桐紋(ごさんのきりもん)
織田信長が足利義昭(あしかがよしあき)を上洛させ、将軍職に就任させたときの恩賞として与えられたものです。
元々、足利家が天皇から賜った高貴で由緒ある紋で、織田信長の肖像画の裃にも描かれています。また、豊臣秀吉も朝廷から賜り、桐紋を使用しています。
④丸に二引両紋(まるににひきりょうもん)
織田信長が足利義昭を上洛させ、将軍職に就任させたときの恩賞として五三桐紋と一緒に与えられた紋で、代々、足利将軍家の紋であり、足利家の権威の象徴でもある紋です。
⑤十六菊紋(じゅうろくきくもん)
菊の御紋はもちろん、現代人でもよく目にする皇室の御紋です。
「寛政重修諸家譜」の記録には誰がもらったと詳細に書かれていないらしいですが、「長篠合戦図屏風」にも描かれているので織田信長が当時の天皇から賜ったものだと推測されています。
⑥揚羽蝶紋(あげはちょうもん)
この揚羽蝶紋は、室町時代から平氏の定紋として知られています。
当時、織田信長は自身が平氏の血筋だと流言として広めたかった思惑があり、この紋を使っていました。
⑦無文字紋(むもじもん)
この文字は仏教の禅の世界観である「無」を表しています。
しかし、織田信長がこの無文字紋を使用した形跡は一度も確認されず、「寛政重修諸家譜」に記述されているだけです。