江戸時代最大の反乱、島原の乱。16歳の少年・天草四郎を指導者に、貧しく困窮した農民たちが、幕藩軍を相手に武装して戦い、長期にわたって籠城するという前代未聞の大事件でした。
最終的に、女子供も一人残らず討たれ、悲劇的な最期となります。
その経緯と隠された真実について詳しく解説します。
島原の乱とは
1637年に島原で起こった農民たちによる反乱です。天草四郎を指導者に牢人、武士を含む37,000人もの農民たちが集まり、幕藩軍に抵抗しました。
島原はキリシタンが多い地域で、農民たちは信仰のもとに団結し、原城址で90日もの間籠城しますが、幕藩軍による兵糧攻めのあと攻め込まれて鎮圧されます。
島原の乱が起こった場所
長崎県南島原市で島原の乱が勃発し、キリシタンたちが最後に籠城したのが原城跡だと言われています。
島原の乱の原因
島原の乱は、実際の石高以上の課税、キリシタンへの厳しい弾圧、そこへ飢饉が重なったことで起ったと言われています。
重税
松倉政重は、島原へ入ると新しい城を7年もかけて築城し、その後江戸城の普請も負担しました。
いずれも実際の石高に見合わない予算を必要とする事業だったために、農民たちから搾取をすることになります。
また、子の勝家の代になっても苛政は変わらず、さらにあらゆるものに課税をして税金を搾り取り、農民たちは飢え死にするほど苦しみました。
キリシタンへの厳しい取り締まり
島原はもともとキリシタン大名・有馬晴信が治め、キリシタンを匿うなどの寛大な対応をしたため、キリシタンが多い土地柄でした。
しかし所領代えとなり、松倉重政が島原に入って治めることになると、幕府からの指摘によりキリシタンへ厳しい弾圧が始まります。
凄惨な拷問
松倉氏は納税ができなかったり、キリシタンを発見した際に、農民を非常に残虐な方法で罰し、最後は処刑しました。
例えば、よく行われたのは「火蓑」という拷問です。これは後ろ手に縛って、蓑を着せて逆さ吊りにした後、蓑に火をつけるというものでした。
そのほかに下半身を水につけてそのまま放置してふやけさせ、苦しませる水牢や火山の火口に頭を下にして吊り下げる拷問、裸にして火を押し付ける拷問を行っていたそうです。
悪天候による飢饉
島原は、松倉政重から子の勝家の代になってから毎年のように天候不順で凶作が続き、何度も飢饉が起こりました。
日照りや長雨でコメが不作になり、農民自身の食べるものさえもなくなっても、松倉勝家は平常時と同率で税を徴収したので村を捨てて逃げ出す者が相次ぐことになります。
乱のきっかけ
こうした厳しい状況に農民たちはひたすら耐えていましたが、あることをきっかけについに反乱が勃発します。
1637年9月から税の徴収が始まり、10月になると納税ができなかったことを理由に有力農民の嫁が捕らえられました。
その時、嫁は当月に出産を控えた臨月だったため、代わりに男性の出頭を申し出ますが、聞き入れられず水牢に入れられ、結果として母子ともども亡くなりました。
農民たちはそれまで重税にも、極悪非道な処罰にも耐えていましたが、これを知って決起したと言われています。
戦いの経緯
反乱の勃発
1637年10月、農民たちは代官所を襲撃し、代官を殺害します。
島原藩が城で防備を固めたのを見ると、島原城下に火をつけて、略奪を行った後、口之津の蔵奉行を襲い、武器と食料を集めました。
当時の島原藩は、鎖国に先駆けて南蛮船の出没に対して厳重に警備を行い、兵糧、弾薬や鉄砲などの武器を多数備蓄していたのです。
原城址へ
島原での反乱勃発の数日後、天草でも反乱が起こり、島原勢力と廃城で合流するとその数は37,000人にも上りました。
反乱のメンバーには、農民だけではなく、島原藩から離反した武士や改易になった大名の牢人(どの大名にも属していない武士)も含まれていたため、彼らは武装して抵抗することができたと言われています。
10数万の幕藩軍との闘い
この37,000人の反乱勢力に対して、島原藩には九州地方の大名のほか、幕府からも援軍が来て10数万の兵が集まります。
しかしながら幕藩軍は、反乱軍をなかなか鎮圧できませんでした。
12月中に2回、元旦に1回、計3回戦闘を行い、いずれも反乱軍が圧倒します。
さらに、元旦の戦いでは幕藩軍の指揮官・板倉重昌が戦死しました。
ついにオランダ商船へも援軍を依頼し、海上から原城址へ向けて400発以上の砲撃を行わせます。
この砲撃は天草四郎のいた本丸にも当たり、男女数名が死亡した他、天草四郎も負傷しました。
兵糧攻めへ
たかが農民の反乱と甘く見ていた幕藩軍は、予想を上回る犠牲に作戦を兵糧攻めに切り替えました。
幕藩軍が討ち取った反乱軍の一人を解体したところ、胃の中に海藻しか入っていなかったのです。
幕府の読み通り、原城内では備蓄は底をついて餓死者が出ており、足手まといになるものは殺害するなど絶望的な雰囲気が漂っていました。
こうした中で天草四郎は、洗礼名・フランシスコの名前で法度を出し、城内の結束を固めます。
農民たちの中には、藩主と和解して助かるかもしれないとの望みを持っている者もいましたが、死ぬまで戦う運命なのだと悟り、一丸となって抵抗し続けました。
降伏交渉は決裂
幕府側は、兵糧攻めの間、人質として捕まえた天草四郎の家族を使って交渉人を差し向けたり、何度も矢文で降伏するように呼びかけたりしました。
幕府は最初から城内いる人たちは誰であれ一人も助ける気はありませんでしたが、キリスト教と無関係な人々の赦免をちらつかせます。
実は城内には強制的にキリスト教に改宗させられて、連れてこられた一般人もいたからです。
反乱軍は「我々は神に身命を捧げるつもりだ」と回答し、抵抗を続けました。
反乱の鎮圧
反乱軍は、翌1638年2月に機会を見計らっていた幕藩軍の襲撃を受け、本丸に流れ込んだ幕藩軍により天草四郎が討ち取られました。
最期は明確にはわかっていませんが、傷を負って臥せっていたところを討ち取られたと言われています。
島原の乱のその後
幕藩軍がなだれ込んだ城内では、集団自決を行った人々もいましたが、内通者の南蛮絵師と無理やり連れてこられた蔵奉行の一家以外、立てこもっていた農民たちは、幕藩軍によって虐殺されました。
原城址からはいまだに人骨が出土し、その手や口の中にはメダイが見つかるそうです。
城から逃げだした落人も許されず、反乱参加者は根絶やしにされました。
藩主・松倉勝家のその後
松倉家の屋敷からキリシタン道具や不審な遺体が多数見つかり、松倉勝家は幕府から厳しい取り調べを受けました。
その結果、農民たちを搾取し、圧政を敷いていたことが明らかになり、松倉勝家は反乱の原因を作った罪で改易、大名としては異例の斬首となります。
幕府への影響
幕府は3か月にもわたって籠城し抵抗を続けたキリシタンたちの結束に危機感を抱きます。
もともとキリスト教は禁止されていましたが、キリスト教信仰が人々の生活に入り込む余地がないように仏教寺院に人々を登録しようと1640年に宗門改役を開設、1639年にポルトガル船の入港を禁止し鎖国を始めました。
また、キリシタンが多く、江戸から遠い九州全土の支配体制を強化しようと、長崎奉行を常駐にし、警備を強化します。
島原の乱で農民たちが廃城を利用して立てこもった対策として、一国一城令を徹底させ、廃城の石垣などを取り壊させました。
そのほかの真実
天草四郎は存在していなかったかもしれないという説があり、その真実について解説していきます。
首謀者は牢人たち
実は島原の乱の首謀者は、改易された大名の牢人たちと島原藩から離反した武士たちで、蜂起の半年前から反乱計画を練っていました。
その中で、指導者を16才の若者「天草四郎」とすることを決めます。
存在のあいまいさ
天草四郎の本名は益田四郎と言われていますが、出生地から大矢野四郎とも、単に四郎とも呼ばれていました。
そして首謀者の一人、益田甚兵衛の息子ということになっていますが、突き詰めると本当に実在したのかは、はっきりとわかりません。
造られた四郎像
首謀者たちは、島原の前藩主・有馬氏の転封と同時に追放された宣教師ママコスの「25年後に天子が現れて救済してくれる」ということばを巧みに利用します。
同時に四郎が、「海を歩いて渡った」、「盲目の少女を癒した」などのいかにもキリスト教的な奇跡のうわさを流布させました。
そして若者たちに「四郎」の扮装をさせ、村々を回ってキリスト教に立ち返れば、地獄のような現状から救ってくれると説いて回らせます。
結果、農民たちの間に「四郎が予言された天子であり、救世主なのだ」という考えを浸透させることに成功しました。
そして多数の農民たちが四郎を救世主と信じて反乱に参加することになります。
四郎の首
実は、幕藩軍も「16才の若者が反乱を指揮するなんてありえない」と四郎の存在を疑っていました。
そのため、降伏交渉でも「無理やり参加させられた人は許す、四郎も例外ではない」と文をよこします。
反乱鎮圧時にも誰が四郎なのかわからなかったので、四郎と同年代の若者とみればすべて首を取りました。
そして首実検は四郎の母親にさせることになります。
さいごに
以上の天草四郎は存在しなかったという説が真実かどうかは定かではありません。
しかし、いずれにしろ悲惨なキリシタンへの迫害があったのは事実です。
幕府に鎖国を決めさせるほどの影響力を与えた島原の乱は、信仰を持つ人々の我慢強さを示す歴史的事件となったと言えるでしょう。