足利義満(あしかがよしみつ)は祖父・足利尊氏(あしかがたかうじ)が興した室町幕府の第3代将軍で、南北朝を合一し現世に世界遺産として残る金閣寺を建てた人物です。
父の急死により幼くして将軍職を継ぎますが、祖父や父もしのぐほどの絶大な権力と富を築き上げました。
また、足利義満と言えば身近に感じられるのが、昭和時代から何度も再放送されたアニメ「一休さん」に登場する憎めないキャラクターの将軍様としての存在です。
一休さんとのエピソードなども紹介しながら、年表も併せて足利義満の人生を紹介していきたいと思います。
足利義満の生い立ち
足利義満は足利2代将軍・足利義詮(あしかがよしあきら)と紀良子(きのよしこ)の子として生まれました。
父・義詮には正室との間に兄にあたる千寿王がいましたが夭折し、足利義満は嫡男として育てられたのです。
幼くして抗争に翻弄される
足利義満が幼い頃、幕府と南朝の抗争が続き、幕政をめぐる争いが深刻さを増していきました。やがて南朝方に京都を占拠され、父・義詮は後光厳天皇(ごこうごんてんのう)を奉じて近江に逃れます。
足利義満も、3歳にしてわずかな家臣に守られながら建仁寺に逃れた後、赤松則祐(あかまつそくゆう)の播磨白旗城への避難を余儀なくされたのです。しかし、翌年には北朝側が京を奪還したので帰京することができました。
わずか9歳にして将軍となる
足利義満9歳の時に父・義詮は病に倒れ死期を悟り、足利義満に家督を譲り、讃岐(香川県)から細川頼之(ほそかわよりゆき)を管領として呼び寄せ足利義満の後見・教導を託します。
1369年(正平24年/応安2年)10歳で足利義満は元服して正式に室町幕府の第3代征夷大将軍となりました。
幕府権力の強化と南北朝合一
足利義満が元服し邸宅を北小路室町に移し(花の御所)基礎を築く傍ら、幕政の実務は細川頼之の手にあり、細川頼之は幕府の体制強化に努め、幕府の基礎をしっかりと固めていきます。
しかし、細川頼之の権力の肥大を危惧した他の有力守護大名の反発を招き、足利義満は細川頼之に帰国を命じ(康暦の政変)、反・細川派の斯波義将(しばよしまさ)を管領としました。
この後、足利義満の将軍職は確立されており、追討令が下された細川頼之が翌年には赦免されて宿老として幕政に復帰した経緯などから、双方の派閥を利用して牽制させることで足利義満自ら幕政を志向し始めた事が伺えます。
有力守護大名の勢力削減
細川頼之亡き後、足利義満は土岐康行(ときやすゆき)・(土岐康行の乱)、山名氏清(やまなうじきよ)・(明徳の乱)、大内義弘(おおうちよしひろ)・(応永の乱)を討ち滅ぼし、足利義満自身の将軍権力を絶対的なものにしていきました。
明徳の和約
足利義満の巧みな策で有力守護大名が破れ、敗れた有力守護大名が担いでいた南朝に対しても、1392年(元中9年・明徳3年)南朝の御亀山(ごかめやま)天皇に三種の神器を北朝の御小松(ごこまつ)天皇へ譲り渡させることで、事実上南朝を否定して60年近く続いた朝廷の分裂を終わらせました。(南北朝合一)
公武両勢力の頂点へ
足利義満は自らの立場をより強固に誇示する為に、公家社会でも精力的に働きかけて武家として初めて源氏長者となり、准三后の宣下を受け名実ともに公武両勢力の頂点に上りつめていきます。
1394年(応永1年)足利義満は将軍職を息子の足利義持(あしかがよしもち)に譲り大乗大臣になりますが、将軍としての実権は握り続けていきました。
北山文化と金閣寺
足利義満は形だけ隠居して出家して以後、西園寺家から譲り受けた京都北山の「北山弟」(ほくさんてい)に舎利殿(金閣)を中心とした鹿苑寺を造営します。
足利義満はこの山荘に移り住み、公武の上級貴族を集めて猿楽などの種々の催しに興じ拠点とし、宋・元などの名画も収集して北山文化を開花させました。
勘合貿易(日明貿易)
足利義満は若いころから明との貿易に憧れを抱き続け、正式に明との貿易が成立するまでに何度も使節を送り交渉して、1401年(応永8年)ついに、正式に明との国交を再開させます。
明との貿易では足利義満は「日本国王」として建文帝(けんぶんてい)より冊封(さくほう)を受け、明の要請により倭寇(わこう)の鎮圧もしました。
明との勘合貿易には公家社会から不満や非難する声がありましたが、事実上国家を統一した権力者である足利義満に公の場で発言するものは誰もいなかったといいます。
足利義満の最後
1408年(応永15年)4月、足利義満は咳病を患い倒れます。将軍であり息子の義持は加持祈祷を命じ、さまざまな快癒の催し物を行いましたが回復には至らず、5月6日に51歳(満49歳)で亡くなりました。
金閣寺
修学旅行や京都旅行などで広く知られる金閣寺、正式名称は北山鹿苑禅寺(ほくざんろくおんぜんじ)です。
室町時代初期、足利義満が北山に山荘を造営したもので死後鹿苑寺となりました。
一層が寝殿造で阿弥陀堂、二層が住宅風・武家造、三層が禅宗様の仏殿風で仏舎利を置いています。
1950年に放火により焼失しましたが政府や京都府、多くの寄付などで復元され現在の姿になりました。
国の特別文化財であり特別史跡・特別名勝に指定されています。また、平成6年には古都京都の文化財の要素の一つとして世界遺産登録されています。
一休さん
足利義満と言われてもピンとこない人がいるかと思いますが、昔長く放映されていたマンガ「一休さん」の中で、いつも子供の一休さんにトンチを吹っかけて負けて悔しがる将軍様として、少しお間抜けなキャラクターで愛された将軍様が「足利義満」なのです。
実際は、一休さんの年齢、新右衛門さんの年齢、足利義満の年齢を詳しく調べると年代が違うのでトンチ合戦をしたことはないようです。
ただ、実際の将軍様がとても高名で立派な人物だったように、リアル一休さん(一休宗純)もそうとうアクの強い、傍若無人で僧としてはかなり破天荒な生き方をしていました。
「戒律なんて守らないほうが人間らしくて良い。」と言ったそうで、知恵が効き頭が良く、人々に愛されていたと言います。
アニメ一休さんの中で足利義満と一休さんの有名なエピソードを紹介してみましょう。
びょうぶの虎
将軍様は一休さんを呼び、屏風に描かれた今にもキバを向いて飛び掛かりそうな虎を扇で指して、「毎晩あの虎が屏風から抜け出して悪さをするから縛り上げてほしい。」と一休さんに言います。もちろんこれは将軍様が吹っかけたウソ(トンチ)です。
一休さんはしばらく考えて、「縄を用意してください。見事縛り上げてごらんにいれます。」と答えます。将軍様は喜んでまんまと騙されたと内心喜ぶのですが。
一休さんに「虎を縛るので将軍様、虎を屏風から追い出してください。出てきたら縛ります。」と言われ、思わず将軍様は「絵の虎が出るわけないであろう!」と答えるのです。
ここで、一休さんに勝負ありというアニメでは大変有名なお話です。
年表
最後に、足利義満の人生をまとめた年表を紹介します。
1358年 0歳 京都春日で足利二代将軍・足利義詮の子として誕生
1361年 3歳 抗争・内紛で南朝に攻め込まれ父・義詮と京を離れ播磨白旗城へ避難する。
1367年 9歳 父・義詮が病死し第3代将軍として足利将軍家を継ぐ。
1368年 10歳 元服
1369年 11歳 正式に征夷大将軍に就任する。
1374年 16歳 日野業子(ひのなりこ)を室に迎える。
1378年 20歳 邸宅を北小路室町に移し幕府の政庁とする。(花の御所・室町幕府)
1378年 20歳 右近衛大将(このえのだいじょう)に任ぜられる。
1382年 24歳 相国寺の建立を開始。
1383年 25歳 祖父・足利尊氏や父を超える源氏長者となる。
1390年 32歳 兄弟の不和・内紛を利用して土岐氏を滅ぼす。(土岐康行の乱)
1591年 33歳 山名氏の内紛に介入し山名氏を討伐する。(明徳の乱)
1392年 34歳 三種の神器を北朝に接収させる形で南北朝合一を実現(明徳の和約)
1394年 36歳 息子義持に家督を譲り隠居するが実権は握り続ける。
1394年 36歳 従一位太政大臣に昇進するも翌年には出家して道義と号する。
1395年 37歳 九州探題として独自の権力を持っていた今川貞世(さだよ)を罷免する。
1397年 39歳 舎利殿(金閣)を中心とする北山殿(後の鹿苑寺)を造営。
1399年 41歳 西国の有力大名・大内義弘を討伐(応永の乱)/相国寺七重塔を建立。
1401年 43歳 日明国交を正式に樹立し、建文帝より日本国王に冊封される。
1404年 46歳 日本国王(足利義満)が皇帝に朝貢する形式で勘合貿易開始。
1408年 49歳 咳病の為に急死。等持院で火葬され相国寺塔頭鹿苑院に葬られる。