葛飾応為は葛飾北斎の三女です。
1度、堤派の絵師・南沢等明に嫁ぐも、離婚した後、父・葛飾北斎とともに絵師として活躍しました。
代表作品には、「夜桜美人図」「吉原格子先之図」「月下砧打ち美人図」があげられます。
そんな、葛飾応為の生涯や代表作「夜桜美人図」、父・葛飾北斎との関係性を解説してきます。
葛飾応為の生い立ち
葛飾応為は葛飾北斎の三女として誕生しました。
生まれた年は寛政13年(1801)前後とされています。
父・葛飾北斎は2度の結婚をしており、先妻との間で一男二女、後妻との間で一男二女、計6人の子供が誕生しました。
葛飾応為は後妻との間にできた子供とされ、葛飾応為という名前は号であり、本名は栄であったと分かっています。
絵師・南沢等明と結婚する
葛飾応為の幼少期についての記録は残されていませんが、橋本町2丁目の水油屋庄兵衛の子で堤派の絵師・南沢等明と結婚します。
しかし、葛飾応為は結婚後、針仕事などはせず夫・南沢等明の描いた作品の拙い部分に指を指し笑ったため離縁を突き付けられます。
父・葛飾北斎の下で制作助手を務める
離縁した葛飾応為は父・葛飾北斎の下へ戻り、葛飾北斎の制作助手をする傍ら、自身も絵画の制作に取り掛かりました。
この時、父・葛飾北斎は、葛飾応為は顎が突き出し美人とは言えない容姿であったため「アゴ」と呼んでいたとされています。
葛飾応為の初作は文化7年(1810)頃に出版された「狂歌国尽」の挿絵とされています。
葛飾応為は優れた美人画を描き、また春画や枕絵の作者としても活躍しました。
このことから父・葛飾北斎の肉筆美人画や春画の彩色の制作助手をしていたとされています。
同時代に活躍し葛飾北斎を模範としていた絵師・渓斎英泉は自身の記した「旡名翁随筆」の中で、「女子栄女、画を善す、父に従いて今専ら絵師をなす、名手なり」と記し、葛飾応為の描く作品を褒め称えました。
この「旡名翁随筆」は天保4年(1833)に出版され、このことから葛飾応為は20年近く父・葛飾北斎の下で絵画制作を行っていたことが分かります。
葛飾応為の晩年
晩年、葛飾応為は仏門に帰依したとされ安政2年(1855)から安政3年(1856)頃に樺沢で亡くなったとされる一方、父・葛飾北斎が亡くなった8年後にあたる安政4年(1857)に葛飾応為が67歳で家を出るとそれ以来、消息不明となったとも伝えられています。
また「浮世絵師便覧」には葛飾応為は慶応年間まで生きていたと記されています。
葛飾応為の代表的な作品
葛飾応為が残した現存する作品は10点前後のみとされています。
葛飾応為は西洋画法への興味を持っており、細密描写に優れた肉筆画が残されていました。
葛飾応為の残した作品が少なすぎることから、父・葛飾北斎の作品の中にも葛飾応為の作品が多く含まれているのではと考えられます。
葛飾応為の代表作品とされるのは「夜桜美人図」「吉原格子先之図」「月下砧打ち美人図」です。
「夜桜美人図」
「春夜美人図」とも呼ばれます。
無款であるものの、葛飾応為の絵画技法が作品から見えることから、葛飾応為の作品だと認められています。
元禄時代の活躍していた女流歌人・秋色女をモデルに描いた作品です。
「吉原格子先之図」
吉原遊廓の花魁たちが室内に居並ぶ張見世の様子を描きました。
父・葛飾北斎の持つ葛飾工房では東インド会社の商館の最高責任者によって依頼された水墨画があり、その技法と一致することから、この作品もオランダ人からの依頼で制作されたのではと推測されます。
「月下砧打ち美人図」
この作品は葛飾応為が絵画制作を始めだした頃の、比較的早い時期に描かれた作品とされています。
満月の下で砧を打つ女性が描かれていました。
葛飾応為の名前の由来
葛飾応為は本名ではなく号です。
この号は父・葛飾北斎が葛飾応為を「おーい、おーい」と呼んでいたことから、そのまま「応為」という号が付けられました。
また父・葛飾北斎は生涯多くの号を用いており、その中の1つである「為一」から「為一に応ずる」という意味として「応為」という号が付けられたのではないか。という説も存在しています。
父・葛飾北斎とのエピソード
葛飾応為は父・葛飾北斎の性格に似ており慎みにかけ、男勝りな性格であったとされています。
父・葛飾北斎の弟子である露木為一は葛飾応為が酒と煙草を非常に好んでいたと残し、また父・葛飾北斎の作品の上に煙草の火種を落としてしまったことから一旦は禁煙に励むも、再び煙草を吸うようになったと証言しました。
最後に
葛飾北斎の娘、葛飾応為は謎に包まれた女性でした。
離婚後は父・葛飾北斎の下で絵画制作を熱心に行っていたため、再婚したという記録は残されておらず、また子供もいなかったとされています。
父・葛飾北斎とともに二人三脚で絵画の制作に打ち込んだ女性でした。