西行とは平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武士です。
俗名は佐藤義清で、16歳頃から徳大寺家に仕えた後、鳥羽院の北面武士として奉仕していたとされていますが、保延6年(1140)23歳の頃に出家し、後に西行と称しました。
そんな西行法師の生涯や逸話、桜に関する和歌について解説していきます。
西行法師の生い立ち
西行は元永元年(1118)左衛門尉であった父・佐藤康清と母・源清経の娘の次男として誕生しました。
俗名は佐藤義清で、兄に佐藤仲清がいたとされています。
佐藤家は、近江三上山の百足退治の伝説で有名な藤原秀郷を先祖を持っていたため、佐藤義清(後の西行)は藤原秀郷の9世孫にあたります。
佐藤氏は代々、君主を警衛する近衛兵に仕えていたとされ、裕福な暮らしぶりでした。
佐藤義清(後の西行)は16歳の頃から公家である徳大寺家に仕えていたとされ、このことから公家・徳大寺実能や徳大寺公能と親交を深めることとなります。
北面の武士となる
幼いころに父を亡くしていた佐藤義清(後の西行)は父の跡を継ぎ、保延元年(1135)に18歳で左兵衛尉となり、その後保延3年(1137)には鳥羽天皇の護衛を行う北面の武士として活躍しました。
北面の武士とは一般の武士とは異なる院の直属軍であり、公卿まで昇進するも者もいたとされています。
北面の武士となった佐藤義清(後の西行)には同期に平清盛もいたとされていますが、詳しい関係性は残されていません。
北面の武士として身を置いていた京都では、頻繁に歌会が催されていたとされ、その際、佐藤義清(後の西行)が詠った和歌は高く評価されていたとされています。
また流鏑馬や蹴鞠の名手であったとも伝えられています。
出家し西行と名乗る
北面の武士であった佐藤義清(後の西行)は保延6年(1140)、23歳の頃に円位と名乗り出家し、後に西行と名乗り始めました。
佐藤義清(後の西行)がなぜ急に出家したのか、その動機はあきらかになっていません。
しかし『西行物語絵巻』には、親しい友人が急死したため北面の武士を辞めたと記されています。
一方『源平盛衰記』には、高貴な女性と関係を持つも失恋したと記され佐藤義清(後の西行)は失恋によって北面の武士を辞めたとい記されました。
友人急死説また失恋説このどちらかが出家する動機に繋がったと考えられています。
失恋説において、佐藤義清(後の西行)と関係を持ったとされる女性は崇徳天皇・後白河天皇の母である藤原璋子、または近衛天皇の生母・藤原得子、藤原璋子の娘・統子内親王ではないかと推測されています。
旅に出る
出家した西行は京都嵯峨にあたる小倉山や鞍馬山で暮らしたとされ、天養元年(1144)頃に奥羽地方へ旅行すると、久安4年(1149)前後に和歌山県高野町にある高野山に移り住みます。
その後、仁安3年(1168)に中国、四国地方に旅に出ました。
讃岐国に入ると西行は、4年前の保元の乱で敗れた崇徳院の眠る白峯陵を訪れ、この際、たとえ君が、昔王座についておられたところで、このような姿(死者)になられた以上、それがなにになるのでしょうか。現世の執着を忘れ成仏してください。といった意味の「よしや君昔の玉の床とてもかからむ後は何にかはせん」と和歌を残しています。
また空海の遺跡巡礼もこの中国・四国の旅で行いました。
奥州へと旅に出る
中国、四国地方の旅を終えた後、高野山へと帰った西行は治承元年(1177)になると伊勢国二見浦に移ります。
この頃、平家にとって全盛期とされる時期であり、治承4年(1180)に安徳天皇が即位すると、平清盛や平家一門が安徳天皇の後ろ盾となりました。
しかし、平氏と源氏は対立するようになり、後白河天皇の第三皇子・以仁王によって平氏討伐の命が全国の武士に発せられます。
これによって各地で源氏と平家が争うようになり、この源平動乱の中で治承4年(1181)12月28日、平清盛の命を受けた平重衡ら平氏軍が東大寺や興福寺を焼討する南都焼討が起きます。
これにより東大寺大仏殿は焼失となりました。
当時、東大寺の復興を行っていた僧・重源は、西行に「奥州藤原氏に大仏を鍍金するための砂金を早く送るよう伝えてほしい」と頼み、これを受け文治2年(1186)西行は奥州藤原氏に会うため、奥州へと向かいます。
この道中、鎌倉で源頼朝に面会したとされ、和歌や流鏑馬などの話をしたと『吾妻鏡』に残されています。
西行の最期
文治3年(1187)になると、西行は現在の大阪府南河内郡河南町に位置する河内国の弘川寺に移ります。
弘川寺という寺は行基や空海も修行した寺であったとされ、この寺の裏山に居を構えました。
その後、建久元年(1190)2月16日、西行は73歳にして河内国で亡くなりました。
「願はくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ」
西行は、生前「願はくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ」と詠んでいました。
この和歌は、できれば桜の花の下で、春に死にたい。釈迦が入滅した陰暦の2月15日の満月の頃に。という意味です。
そう詠んでいた西行の願いが叶ったのか、西行は春にあたる2月16日に亡くなりました。
この西行の生きざまに藤原定家や慈円は非常に感動したとされ、当時、西行の死は多くの人に知られることとなりました。
和歌
西行がいつ和歌を嗜みはじめたのかは分かっていませんが、第74代天皇・鳥羽天皇の護衛を行う北面の武士として活躍していた頃から和歌を詠んでいたとされ、季節の歌はもちろん恋歌や雑歌に優れていたとされています。
気品の高い閑寂にして艶っぽい歌風を詠む西行の和歌は第74代天皇・鳥羽天皇に高く評価されていました。
西行は第75代天皇・崇徳天皇の歌壇の一員であった藤原俊成と交流を持っていたため、藤原俊成から、また東大寺の僧・俊恵から影響を受けたと考えられています。
出家後、歌壇と距離をおく
出家後、西行は各地に旅に出てており歌壇と一定の距離があったとされていますが、文治3年(1187)に自歌合『御裳濯河歌合』を完成させると西行は藤原俊成に判を依頼し、また自歌合『宮河歌合』を完成させた際は当時、まだ新人歌人であった藤原定家に判を依頼しました。
第82代天皇・後鳥羽天皇は『後鳥羽院御口伝』のなかで新古今の新風形成に大きな影響を与えた人物として藤原俊成とともに西行と挙げており、西行が後世に与えた影響は大きいとされています。
西行が詠った和歌は約2300首以上とされており『千載集』、『新古今集』などの勅撰和歌集に計265首が入撰されました。
逸話
西行には隆聖と呼ばれる息子と、娘(名前不明)がいました。
西行が出家する際、娘は西行の衣の裾に取りつき泣きつくも、西行は追いすがる娘を縁側から蹴り落し家を出たという逸話が鎌倉中期成立した『西行物語』に残されています。
しかし、この『西行物語』自体、史実を忠実に記録したものではないとされているため、西行が実際に娘を蹴落とし、出家したかは分かっていません。
この際、西行は「惜しむとて 惜しまれぬべき此の世かな 身を捨ててこそ 身をも助けめ」と詠んでいます。
この和歌はいくら惜しんだところで、この世の中は惜しみを通すことができない世の中である。それならば、いっそ、この世を捨て身を助けよう。といった意味で、愛というものは時に嫉妬や憎悪を生み闘争や戦争を引き起こす、それならば執着の元となる家族すらも捨てようと考え、西行は愛おしい娘や家族を仕方なく絶ったのではないでしょうか。
まとめ
西行は、公家・徳大寺家に仕えた後に北面の武士となるも、出家し各地を旅しながら多くの和歌を詠みました。
西行は建久元年(1190)2月16日に亡くなりましたが、生前、「願はくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ」と詠んでおり、願い通り最期を迎えることができたとされています。