新田義貞とは南北朝時代に活躍した武士で、分倍河原合戦において鎌倉幕府を滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の1人となった人物です。
しかし、同じく鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻すと、その討伐にあたり、その後戦死しました。
そんな新田義貞の生涯や鎌倉攻め、刀や家紋、子孫について解説していきます。
新田義貞の生い立ち
新田義貞は鎌倉時代後期にあたる正安3年(1301)新田氏本宗家の7代当主であった父・新田朝氏の嫡男として誕生します。
新田氏は八幡太郎義家の四男・義国の長男・新田義重から始まりました。
後に登場する足利尊氏の出身である足利家も新田氏と同祖であるとされ、八幡太郎義家の四男・義国の次男である足利義康が足利家のは始まりとされています。
生年については明確に判明していませんが、後に越前藤島で戦死した際、37歳から40歳であったとされ、このことから正安3年(1301)に誕生したと推測されています。
『筑後佐田系図』によると新田義貞は正和3年(1314)、13歳の頃に元服したと記されていますが、明確には分かっていません。
足利尊氏にライバル心を抱く
文保2年(1318)1月2日、新田氏本宗家の7代当主であった父・新田朝氏が亡くなります。
これによって新田氏本宗家の家督は嫡男である新田義貞に引き継がれることとなり、新田義貞は8代当主となりました。
しかし、以前から新田氏本宗家は北条得宗家と対立関係にあり、またもともと広大な新田荘を持っていた新田氏でしたが、新田義貞の代でその所有量は減り、このようなことから同祖である足利氏と比べ鎌倉幕府から冷遇を受けるようになります。
そのため、新田義貞の地位は低く、無位無官でした。
しかし同祖の足利尊氏は新田義貞に比べ地位も高く、また元服と同時に従五位下・治部大輔に任じられるなど、幕府の中でも信頼されるようになります。
足利尊氏との間でこのような格差が生まれ、新田義貞は生涯、足利尊氏に対しライバル心を抱くのでした。
元弘の乱
元弘元年(1331)元弘の乱が勃発します。
この元弘の乱とは後醍醐天皇を中心とした勢力による倒幕運動です。
この乱は文保2年(1318年)大覚寺統の後醍醐天皇が即位したことから始まります。
この頃、天皇家には大覚寺統、持明院統という2つの皇室がありました。
鎌倉時代中期、治天の君であった後嵯峨天皇が次期天皇を決めず崩御してしまったため、息子である兄の後深草上皇(持明院統)、弟の亀山天皇(大覚寺統)が対立するようになります。
そのため、鎌倉幕府は持明院統、大覚寺統から交互に天皇を即位させる両統迭立を提案し、2つの皇室から交互に天皇が即位することとなったのです。
この2つの皇室から交互に天皇が即位するといった時代は延元元年(1136)から始まっており、この時代は南北朝時代と呼ばれています。
しかし、文保2年(1318)に即位した大覚寺統の後醍醐天皇は、両統迭立に反対し、両統迭立を認める鎌倉幕府の討幕を計画し始めます。
後醍醐天皇による倒幕計画は1度、鎌倉幕府に発覚することとなりましたが、その後も側近の日野俊基や真言密教の僧・文観らとともに倒幕計画を企てるのでした。
元弘元年(1331年)その後も2度目となる倒幕計画も密告により発覚したため後醍醐天皇は遂に討幕に向け挙兵します。
この後醍醐天皇の挙兵には後醍醐の皇子・護良親王や、河内国の悪党・楠木正成なども兵を挙げたとされています。
楠木正成と交戦
こうして後醍醐天皇による挙兵が行われると、鎌倉幕府もすぐさま討伐軍を編成します。
新田義貞はこの討伐軍に選出され、大仏貞直、金沢貞冬、足利高氏とともに挙兵しました。
鎌倉幕府による討伐軍は元弘元年(1331)9月、笠置山の戦いにおいて後醍醐天皇勢力を破ると、次いで南朝(後醍醐天皇が開いた朝廷)の本拠地である吉野も陥落に追い込みます。
残るは後醍醐天皇方の楠木正成が守る下赤坂城のみとなりましたが、楠木正成は下赤坂城が総攻撃を受けると行方をくらましました。(赤坂城の戦い)
こうして鎌倉幕府方が後醍醐天皇方を追い込むと、元弘2年(1332)、後醍醐天皇は隠岐島へと配流され、倒幕運動は鎮圧されることとなります。
千早城の戦い
しかし赤坂城の戦いの戦いで行方をくらまし潜伏していた楠木正成が、元弘2年(1332)に挙兵すると、またもや倒幕運動が活発化します。
これに対し、鎌倉幕府も再び討伐軍を編成し、新田義貞は楠木正成の討伐軍に加えられます。
こうして元弘3年(1333)楠木正成軍と討伐軍による千早城の戦いが始まりました。
しかしこの戦いで幕府軍は楠木正成軍の奇襲を受けることとなり敗北してしまいます。
鎌倉幕府に不満を抱く
千早城の戦いに幕府軍として参加した新田義貞でしたが、この頃から鎌倉幕府に対し不満を抱いていました。
その原因となったのは鎌倉幕府による高額の税金の徴収と、所領没収とされています。
新田義貞は以前、幕府の徴税の使者と衝突の末、その使者を殺害するといった事件を起こしており、それに伴い所領の没収がなされていました。
このようなこともあり、新田義貞は鎌倉幕府に対し不満を抱くようになったとされています。
鎌倉攻めの開始
こうして鎌倉幕府に不満を持った新田義貞は遂に挙兵します。
新田義貞の挙兵には同じく幕府に不満を持つ多くの武士がついたとされており、最終的には約20万にも及ぶ兵力となったとされています。
小手指原の戦い
元弘3年(1333)5月11日ついに幕府軍と新田義貞軍は衝突を起こしました。
この戦いは小手指原の戦いと呼ばれ、30回を超える激闘となったとされています。
両者ともに激戦を繰り返したため疲労困憊となり勝負はつかず、幕府軍の一時撤退に終わりました。
鎌倉幕府を滅亡に追い込む
その後行われた分倍河原の戦いでは幕府軍の増援により、新田義貞は撤退に追い込まれます。
敗走した新田義貞は退却を検討しましたが、6000もの軍勢が応援に駆け付けたため再び幕府軍を攻撃し、新田義貞軍の勝利に終わりました。
その後も関戸の戦い、由比ヶ浜の戦い、東勝寺合戦で新田義貞軍は勝利し、遂に元弘3年(1333)鎌倉幕府は滅亡しました。
足利尊氏との格差
鎌倉幕府滅亡後、勝長寿院に本陣を敷いた新田義貞は戦後処理に追われます。
配流されていた後醍醐天皇が復活すると、新田義貞は幕府を滅亡に追い込んだ褒美として従四位上・左馬助・播磨守に任じられました。
一方でライバルである足利尊氏も後醍醐天皇から褒美が与えられますが、新田義貞とは違い、従三位・鎮守府将軍・武蔵守それに加え、天皇の尊の字を与えられ「足利尊氏」と名乗るなどされ、新田義貞の褒美は比較にならないものでした。
足利尊氏の討伐
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は自ら政治を主導するようになります。(建武の新政)
しかし後醍醐天皇が始めた建武の新政に不満を持つ武士が次々と現れ、後醍醐天皇に代わる新たな天皇を求めるようになりました。
この頃になると足利尊氏も後醍醐天皇の政治に不満を持つようになります。
建武2年(1335)7月、北条時行らによる鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱、中先代の乱が勃発します。
この乱で足利尊氏は後醍醐天皇の許可を得ずに独断で乱を鎮静しました。
この身勝手な足利尊氏の行動、また乱後、足利尊氏は京都に戻らず新たな武家政権の基盤固めはじめたため、後醍醐天皇は足利尊氏が反旗を翻したと考え、新田義貞や北畠顕家らは足利尊氏の討伐を命じられることとなりました。
後醍醐天皇の裏切り
こうして足利尊氏の討伐軍に選ばれた新田義貞は、建武2年(1136)11月25日、矢作川の戦い、手越河原の戦いで足利直義・高師直軍を破るも、箱根・竹ノ下の戦いで破れ京都へと敗走となります。
建武3年(1336年)5月25日の湊川での戦いにおいても新田義貞軍は破られることとなり、とうとう翌年の建武3年(1337)正月になると足利尊氏軍は京都に入りました。
この頃になると、後醍醐天皇も敗北を予想していたのか、足利尊氏と和平を結びます。
これを知った新田義貞は後醍醐天皇の皇子・恒良親王を擁して越前へと逃れ、金ヶ崎城へと移りましたが、延元2年(1337)1月18日に、足利尊氏が開いた室町幕府軍によって包囲され3月7日に落城に追い込まれました。
新田義貞の最期
その後、上洛を目指した新田義貞でしたが延元3年(1338)7月2日、幕府方の斯波高経らから攻撃を受けます。
この戦いは藤島の戦いと呼ばれ、幕府方の矢を眉間に受けた致命傷を負った新田義貞は、自害しこの世を去りました。
この時38歳であったとされています。
刀について
新田義貞は鎌倉幕府を滅亡させた際、北条氏の伝家の宝剣鬼丸国綱、源家相伝として伝えられる日本刀・鬼切安綱を手に入れたとされています。
しかし、新田義貞が藤島の戦いで亡くなると越中住人氏家伊賀守重国によって鬼丸国綱は足利家へと渡されることとなり、鬼切安綱は斯波兼頼から最上家氏へと伝えられたとされています。
家紋
新田氏の家紋は「一つ引両」とされています。
一方、新田氏のライバルである足利氏の家紋は「二つ引両」です。
2つの家紋は、陣幕の模様から誕生したとされています。
新田義貞の子孫
新田義貞には6人の子供がいたとされています。
しかし新田義貞亡き後、新田義貞の家族たちは北朝から見て朝廷の敵とみなされ、討伐の対象となりました。
応永年間になると新田義貞の孫にあたる新田貞方とその嫡男・貞邦までも鎌倉で殺害され、これによって新田義貞の直系の子孫は断絶となりました。
つまり、新田義貞の子孫は現在存在しないということとなりますが、新田義貞には庶子がいたとされています。
また室町時代前期の武将・岩松満純は新田義宗の子供であると自称しており、さらに岩松氏を下剋上した重臣の横瀬氏も新田義貞の子孫であると主張しているため、現在において新田義貞の子孫が存在する可能性は高いと考えらています。