三好長慶とは戦国時代に活躍した畿内・阿波国の戦国大名です。
10歳で父を亡くし、三好家の家督を継いだ後、管領・細川晴元に仕えるも、室町幕府将軍・足利義輝とともに細川政権を崩壊させ、京都に上がり実権を掌握、その後畿内を中心に八か国を支配しました。
そんな三好長慶の生涯や逸話、飯盛山城や家紋について解説します。
三好長慶の生い立ち
三好長慶は戦国時代にあたる大永2年(1552)2月13日、父・三好元長、母・慶春院殿南岸智英大姉の嫡男として現在の徳島県三好市で誕生しました。
父・三好元長は山城国下五郡守護代であり、室町幕府管領・細川晴元の重臣であったとされ、細川晴元の仇敵である細川高国を滅ぼしたことから、功労者として認められていました。
しかし、三好長慶が10歳となった享禄5年(1532)6月、功労者として認められ本国阿波のみならず山城国にも勢力を伸ばしていた父・三好元長は、その勢威を恐れた主君・細川晴元、また一族の三好政長・木沢長政らの策謀によって勃発した一向一揆によって命を落とします。
一向一揆を鎮圧
父・三好元長を死に追いやった一向一揆は、勢威を恐れた主君・細川晴元らによって策謀されたものでしたが、父・三好元長亡き後も一向一揆の勢いは収まらず、遂には細川晴元の手にも負えなくなり、享禄・天文の乱と呼ばれる戦乱にまで発展しました。
そこで、未だ元服を迎えていない三好長慶が天文2年(1533)6月20日、一向一揆と細川晴元の和睦を斡旋したところ、父・三好元長の死後1年にして、細川晴元と一向一揆の関係は石山本願寺で和談するまで回復したとされています。
三好長慶は一向一揆と細川晴元の和睦を斡旋した直後の11歳になった頃に元服したとされています。
しかし、15歳になるまでは「千熊丸」という幼名で呼ばれていました。
細川晴元に仕える
元服を迎えた天文2年(1533)8月、三好長慶は本願寺から分離する講和に応じない一揆衆が蜂起したため、三好長慶は一揆衆を抑えるため一揆を戦い、摂津越水城を奪回します。
翌年の天文3年(1534)8月11日には本願寺に味方し細川晴元軍と、10月には潮江庄(尼崎市)において細川方についた三好政長と争いましたが、この時、三好長慶はまだ少年であったこと、また河内守護代・木沢長政の仲介によって、三好長慶は細川晴元に仕えることとなりました。
主君・細川晴元との対立
その後も三好長慶は細川晴元の家臣として戦に参加しました。
天文8年(1539)1月15日、三好長慶は主君・細川晴元に対し河内十七箇所の代官職を自らに与えるよう要求します。
もともとこの職は三好長慶の亡き父・三好元長が就いていたものでした。
しかし、父の死後、この職に任命されたのは同族でもあり政敵であった三好政長だったのです。
これに対し、三好長慶は三好政長ではなく自身を河内十七箇所の代官職を自らに与えるよう細川晴元に要求しましたが、聞き入れてはもらえませんでした。
このようなことがあり、三好長慶は主君・細川晴元と良好な関係を築くことができなかったとされています。
そのため、12代将軍・足利義晴は細川晴元と三好長慶の和睦交渉を斡旋するなど、関係回復のための工作を続けました。
そんな中、政局の変化によって京都の治安が悪化します。
そのため将軍・足利義晴は三好長慶に対し京都の治安維持をするよう命じました。
京都の治安維持を命じられる
将軍・足利義晴から京都の治安維持を命じられた三好長慶は本国・阿波を後にし天文8年(1539)8月に摂津越水城に入城しました。
入城以降は本国・阿波に戻らなかったとされているため摂津国を三好氏の本拠地にしたということが分かります。
その後、三好長慶は摂津守護代となり幕府に仕えるようになり、摂津・河内・北陸・近江の軍勢を上洛させるなどしました。
このようにして三好長慶は将軍・足利義晴と信頼関係を築いていくことととなりましたが、一方で主君・細川晴元は三好長慶の実力に脅威を感じはじめ、ますます2人の関係は悪化となっていくこととなりました。
主君・細川晴元との関係の悪化
天文10年(1541年)9月頃、三好長慶は主君・細川晴元の許しを得ず、独断で段銭徴収を行います。
これに対し、主君・細川晴元は段銭徴収をやめるよう命じました。
しかし、三好長慶は主君・細川晴元の命令を無視し、主君・細川晴元に対し敵意を表します。
このように2人が対立する中で、三好長慶に味方するものがどんどんと増え始め、三好長慶の実力は石山本願寺にも認められる程となっていました。
しかし、天文16年(1547年)3月頃になると、三好長慶と主君・細川晴元は和睦したとされ、両者の関係は一時的に回復に向かいます。
三好政権の誕生
主君・細川晴元と和睦を結んだあとは同族であり政敵である三好政長もともに軍事行動を共にしましたが、再び三好政長と関係悪化となり、天文17年(1548)7月、三好長慶は三好政長を討とうと決意します。
そのため翌月の8月に主君・細川晴元に対し三好政長父子の追討を願い出ましたが、主君・細川晴元は三好政長に対し厚い信頼を注いでいたため、追討の願いは受け入れられませんでした。
これによって三好長慶は10月18日、かつての敵である細川氏綱・遊佐長教と手を結び、主君・細川晴元に対し反旗を翻し天文18年(1549)2月、三好長慶軍と同族の三好政長の戦いである江口の戦いが勃発します。
この戦いにおいて三好長慶は勝利を収め、主君・細川晴元、三好政長は撤退に追い込まれる結果となり、これにより細川政権は事実上崩壊し、三好政権の誕生となったのです。
足利義輝との対立
天文19年(1550)2月、この頃、近江国に亡命をしていた足利義晴が京都奪回を図り中尾城を築きます。
足利義晴は三好長慶と細川晴元が対立した際、細川晴元に味方していましたが、江口の戦いにおいて細川晴元が敗れたため、近江国へと亡命していたのです。
しかし、天文19年(1550)5月に足利義晴が病死すると、その息子・足利義輝が京都奪回を図ります。
京都奪回を図る足利義輝は天文19年(1550)、三好長慶軍と交戦するも敗走します。(中尾城の戦い)
幕府の政治主導権を握る
その後、天文20年(1551)7月14日、足利義輝は三好政勝・香西元成らを率いて入京し三好長慶軍に攻撃を仕掛けますが、三好長慶は松永久秀とその弟の松永長頼に足利義晴軍の追放を命じ三好政勝・香西元成らは敗走となりました。(相国寺の戦い)
この結果、足利義輝と細川晴元らは武力による帰京は不可能となったため足利義輝・細川晴元を支援していた六角定頼は三好長慶との和睦交渉を斡旋します。
これによってひとまず足利義輝とは和睦を結ぶこととなりました。
以降、三好長慶は幕府の政治主導者として実権を握ることとなります。
三好氏の英華
実権を握った三好長慶は摂津を中心に山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨などに勢力を拡大しました。
実権を握った三好長慶の全盛期ともいえる永禄2年(1559)2月、織田信長が数人の兵を率いて上洛します。
しかし、この時は三好長慶と対面することなく、尾張国へと戻っていきました。
信長が上洛したのは、機内で実権を掌握していた三好長慶の評判を聞くためだったのではと考えられています。
また同年、三好長慶の嫡男・慶興が将軍の足利義輝から「義」の字を与えられ「義長」と改名するなど、三好長慶の権威は英華を極めていました。
しかし三好長慶の英華は長くは続かず、和泉の支配を任せていた弟・十河一存が永禄4年(1561年)4月に急死したのを機に、三好長慶の衰退が始まります。
和泉を支配していた弟・十河一存が急死したため、和泉の支配が脆弱し、それを機に畠山高政と六角義賢が三好家に攻撃を仕掛けてきたのです。(久米田の戦い)
この戦いにおいて弟の三好実休が戦死しています。
松永久秀の活躍
一方、京都では松永久秀と三好長慶の嫡男・三好義興が三好軍を率いて善戦し、永禄5年(1562年)5月19日に和泉を支配していた畠山高政を追放し河内を再平定、翌月の6月に京都を一時的に支配していた六角氏と三好家を和睦に導きます。
こうして松永久秀と三好長慶の嫡男・三好義興の働きによって三好家は畠山高政と六角義賢の争いに勝利することとなりましたが、三好長慶がこの戦いに出陣した形跡はなく、この頃から病に犯されていたと考えられています。
三好家の衰退
永禄5年(1562年)8月、幕府の政所執事・伊勢貞孝が畠山・六角の両家と通じ、京都で挙兵します。
しかし、翌月の9月に松永久秀と嫡男・三好義興によって伊勢貞孝は討たれます。
このように、松永久秀は三好家において多くの功績を残すようになり、三好家の次第に握るようになりました。
そんな中、永禄6年(1563)1月和泉で根来衆と三好軍が激突、また大和においても松永久秀の三好軍と多武峯宗徒の衝突が勃発、永禄6年(1563)2月には細川晴元の残党による反乱が勃発するなど、各地で反三好家による対立が勃発しました。
また永禄6年(1563)8月には三好長慶の嫡男・三好義興が22歳若さで亡くなり、12月になると名目上の主君・細川氏綱も病死します。
このように三好政権の政権維持に必要であった形式上の管領などを失ったことで三好政権は徐々に中核から崩れかけていくのでした。
実は、三好長慶の相次ぐ身内の不幸は部下である松永久秀による暗殺によるものではないかと考えられてます。
三好長慶の最期
永禄7年(1564)5月9日になると松永久秀は三好長慶に対し、弟の安宅冬康が謀反を企んでいると忠告します。
息子を亡くし、名目上の主君も亡くした三好長慶はショックのあまりこの忠告を信じ込み、弟・安宅冬康を居城の飯盛山城に呼び出し、殺害に至りました。
その後、弟・安宅冬康が謀反を起こそうとしているのは松永久秀による讒言であったことを知ると、一層ショックを受け病状は悪化となります。
その後も病状は回復せず永禄7年(1564)7月4日、43歳で亡くなりました。
三好長慶の死後
三好長慶の死後、三好義継が後を継ぎましたが、まだ若年であったため松永久秀と三好三人衆と呼ばれる三好長逸・三好政康・岩成友通が後見役と三好家を支えました。
しかし、松永久秀と三好三人衆は三好家の家臣であるにも関わらず、独自の働きを見せ永禄8年(1565)5月19日、将軍・足利義輝を殺害するなど行うのでした。
逸話
三好長慶は保守的で柔弱な性格であったという評価が多くされています。
その性格を表す逸話をご紹介いたします。
敵を徹底的に追い詰めない
三好長慶は長年、将軍・足利義輝と争っていました。
天文19年(1550)11月21日に勃発した中尾城の戦いにおいて、三好長慶は足利義輝と細川晴元を合戦で破ります。
敗れた足利義輝と細川晴元は近江国の朽木へと逃れました。
実際、三好長慶は2人を追撃することができましたが、三好長慶は追撃を行わなかったとされています。
またその後、5年間もの間も朽木を襲撃した形跡は見つかっていません。
このように追撃できるにも関わらず、追撃をしなかった理由として、敵を徹底的に追い詰めない三好長慶の性格が反映されているとされており、織田信長のように徹底的に敵を追い詰める性格と比べると、保守的で柔弱な性格であったと評価されています。
家紋
三好長慶が使用していた家紋は「三階菱に釘抜」とされています。
もともと三好氏は阿波の大族で清和源氏小笠原氏の一族であり、鎌倉時代初期、小笠原長清の嫡男・長経が阿波守護となり、その子孫が三好郡に住んでいたため三好を名乗り始めました。
三好氏が使用する家紋「三階菱に釘抜」は小笠原氏の家紋である「三階菱」と「釘抜紋」を組み合わせたものです。
「釘抜紋」は四国地方で多く使用されている家紋とされており、三好氏は小笠原氏の家紋である「三階菱」と四国地方で多く使用されている「釘抜紋」を使用することによって小笠原の流れを組む阿波国の武将であることを示していたとされています。