日本や世界の歴史で天才と呼ばれている人物は数多くいます。
アインシュタインやエジソン、湯川秀樹や聖徳太子、合戦の天才と言われた上杉謙信、日本の中世最大の天才と言われる織田信長など各分野、各個人の主観などによってもっともっと登場します。
今回は遠野物語の著者で民俗学者、枢密顧問官(天皇の諮問機関委員)だった柳田國男(やなぎだくにお)が、天才と評した南方熊楠(みなかたくまぐす)を取り上げたいと思います。
一部の人からは変人扱いをされた南方熊楠ですが、残っている写真は超イケメンで多数の外国語を操ることが出来たなど逸話や名言も多く残しています。
南方熊楠の人生を辿りながら、彼の功績やその子孫がどうなったかを調べてみました。
南方熊楠、誕生からその学歴
南方熊楠は1867年(慶応3年)5月18日に現在の和歌山県和歌山市で父・弥兵衛、母・すみの次男として誕生しました。
熊野権現が宿る子守楠神社がある藤白神社を信仰していた南方家では、熊野の熊、藤白の藤、子守楠の楠の3文字から取った名前をつけると健康で長寿な子になると言われており、熊楠の名前がつけられました。
現、和歌山市立雄湊小学校~現、和歌山県立桐蔭高校へと進学、在学中に教師であった鳥山啓(とりやまひらく)から博物学を勧められ、その研究にのめり込んでいきます。
卒業後上京して現、開成高校に進学、1884年(明治17年)には現、東京大学へと入学、同期で入学したのが夏目漱石、正岡子規などでした。
東京大学へと進学したものの大学の講義へは全く興味を示さず、遺跡発掘や菌類の標本収集に熱中したため、1886年(明治19年)試験に落第したのをきっかけに東京大学を中退しました。
和歌山へ一旦帰りますが、その年の暮れには横浜から渡米し、年が明けた1月、サンフランシスコのパシフィック・ビジネス・カレッジに入学します。
8月にはミシガン州へ移り、現在のミシガン州立大学へ入学、しかし校則である寄宿舎での飲酒に違反し自主退学、南方熊楠の学生生活はこれで終わりを告げます。
南方熊楠、海外での才能開花
退学後はフロリダ州へ移りアルバイトをしながら生物調査を続け、新発見の緑藻を科学雑誌『ネイチャー』に発表し、スミソニアンから譲渡の依頼が舞い込みます。
1892年(明治25年)イギリスへ渡った南方熊楠は、翌年から立て続けに「極東の星座」「動物の保護色に関する中国人の先駆的観察」をネイチャーに寄稿します。
この頃に大英博物館の学芸員だったオーガスタス・ウォラストン・フランクスと知り合いとなり大英博物館へ出入りするようになり、そこに所蔵される考古学、人類学、宗教学などの本を読み漁る日々を送ります。
この間にもネイチャーには論文の寄稿を続けており、日本文学研究者フレデリック・ヴィクター・ディキンズとも交流ができ、彼の翻訳を手伝う代わりに経済的な援助を受けたりしました。
1895年(明治28年)に大英博物館の東洋図書目録編纂係の職に就くことが出来るのですが、3年後には人種差別を受けたことで暴力事件を起こして博物館への出入りを禁止されてしまいます。
勉学の手段を失った南方熊楠は1900年(明治33年)に帰国の途につきます。
故郷、和歌山で新種の発見
14年ぶりに和歌山に帰った南方熊楠は田辺市を永住の地に定めて、熊野や近隣での採集活動を精力的に行います。
南方熊楠はネイチャーへの論文寄稿は日本へ帰っても続けており、これが彼を世界的有名な学者にしていった側面があります。
1905年(明治38年)には帰国後も交流が続いていたディキンズとの共訳本「方丈記」を完成させ、翌年40歳にして闘鶏神社宮司・田村宗造(たむらそうぞう)の四女松枝(まつえ)と結婚、そしてこの年の6月に南方熊楠が生涯で発見した10種の新種粘菌の最初の菌を発見しました。
順調に見えた人生ですが、この様なときにこそ何か事件を起こすのが南方熊楠で、1910年(明治43年)紀伊教育会主催の講習会場に酔っ払った状態で乱入し逮捕されてしまいます。
ところが転んでもただでは起きない南方熊楠は勾留された監獄で新種の菌を発見してしまうのでした。
世界的菌類学者、南方熊楠の誕生
1911年(明治44年)柳田國男と知り合うと文通を始め、翌年には自身が保護運動を行っていた田辺湾神島(かしま)が保安林に指定(後に天然記念物となる)されます。
1915年(大正4年)にはアメリカ農務省の植物学者スウィングルが来日し田辺を訪問、南方熊楠と共に神島の共同調査を行います。
このあとも新種の菌類の発見を続けた南方熊楠の名前は、1921年(大正10年)粘菌新属“ミナカテルラ・ロンギフィラにミナカタと入った名称に命名されました。
1929年(昭和4年)6月1日、和歌山を訪れた昭和天皇に戦艦長門艦上で進講を行い、この時、昭和天皇の要望で講義時間が5分延長されています。
このあと体力の衰えとともに採集活動が徐々に減り、歩行不自由な状態となり公演や式典の出席を断るようになると、1941年(昭和16年)12月29日、自宅で萎縮腎により永眠しました。
享年74歳、真言宗高山寺に葬られました。
あんパンと酒に目のないイケメン青年
南方熊楠は非常に写真好きであったらしく、当時の人にしては多くの写真が現存しています。
若い頃にはジャニーズ系のイケメンだったようで、当時は女性に相当モテたのではないでしょうか?
また、相当な酒好きであったため(晩年にはピタリとやめている)、友人と盛り場で痛飲することも多かったので、その場に呼ばれた芸者さんにもモテていたのではないでしょうか?
酒好きだけでなく甘いものにも目がなく、特にあんパンは大好物だったようで、よく食していたそうです。
南方熊楠が残す数多くの天才的逸話
さて、南方熊楠がなぜ天才と言われているのか?
それは子供の頃や学生時代の知人や学友、恩師の証言に裏付けられています。
子供の頃から神童と呼ばれており、数多くの蔵書がある家にいくと本を見せてもらい、家に帰ってそれらを書写するという抜群の記憶力を持っていました。
また20年以上前の話の中で、その時の酒の席に誰と誰が出席していて、呼んだ芸者さんが誰であったかを正確に覚えていたそうです。
また、一度おぼえた人物の略歴は忘れることなく、その人の出身地や先祖の話まで正確に記憶していました。
旧制中学入学前に大和草本や太平記の書写が終わっていたそうですから、その記憶力は恐るべしと言わざるをえません。
語学に関して英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ラテン語、スペイン語、ギリシア語、ロシア語は専門書を読む程度の力を有しており、英語に関しては読む、話すにおいても堪能であったと言われています。
天才が故の奇行、驚くべき行動
異常なほどの癇癪持ちで、怒り出すと手がつけられないほど凶暴になり、若いときから多汗症で薄着や裸で過ごすことが多く、その格好で収集に出かけ褌一つの姿で近隣の娘たちを脅かして回った逸話が残っています。
大英博物館でも差別的な発言をした閲覧者に頭突きを食らわせて、出入り禁止になり、復職後再び同じ閲覧者に殴りかかったため、またもや出入り禁止処分を受けています。
生涯で定職と言える仕事に就くことはなく、父の遺産と弟の援助で生計を立てていました。
南方熊楠と妻・松枝の間には二人の子供長男・熊弥、長女・文枝が生まれていますが、熊弥は病気で精神を病み独身のまま死去、文枝は結婚しましたが子供ができないままに死去しました。
このため南方熊楠の直系の子孫は絶えていますが、弟の常楠は父の造り酒屋を継ぎ、現在は株式会社世界一統という酒造会社を常楠の子孫が経営しています。
南方熊楠の名言
学問というものは日々進歩して、まるで生き物のように変わっていくが、書籍というものは読んでしまうと、まるで糟粕のようになってしまい、置いておいても仕方かないものだと言って、南方熊楠は贈られた書物でさえも返却していたそうです。
ディキンズが竹取物語の翻訳を南方熊楠に見せて指摘をしてもらったところ、遠慮なく厳しく辛辣に指摘したためディキンズは激怒し、「目上の者に対して敬意も払えない日本の野蛮人め」と南方熊楠を罵りました。
それに対して南方熊楠は権威に媚びて間違いを指摘せず、媚びへつらうような日本人は一人もいないと言い切り、ケンカ別れしたそうです。
その後二人は仲直りし終生の友となりました。
南方熊楠まとめ
神童と呼ばれ、天才的な記憶力で周囲の大人たちを驚かせた幼少、青年期。
留学することによって、自分の進むべき道を定め、他のことを全く省みずに一途に進み、名声や地位、金銭などには全く興味を示さずにただひたすらに自分の道だけを進んだ南方熊楠。
奇人、変人の扱いを受けながらも昭和天皇に進講し、神島保全のために現在で言うエコロジー運動、自然保護運動の先駆者となりました。
彼の功績は日本の生物学史上でも相当に上位であるにも関わらず、その知名度は地面を這うほどのものです。
では最後に、彼の功績がいずれ正当に評価されることを願って、昭和天皇が神島を眺めて詠んだ歌を紹介しておきます。
「雨にけぶる 神島を見て 紀伊の国の 生みし南方熊楠を思ふ」