在原業平は平安時代の歌人です。
平城天皇の孫で阿保親王の五男として誕生、その後、父・阿保親王の上表によって臣籍降下し、在原業平朝臣と名乗りました。
平安時代に成立した「日本三代実録」には在原業平は体貌閑麗と記述され、イケメン貴族であったことがわかります。
そんな在原業平の生涯、主人公のモデルとされた「伊勢物語」、和歌の才能を発揮し多くの歌が収録された「古今和歌集」について解説していきます。
在原業平の生涯
在原業平は平城天皇の第一皇子・阿保親王を父に、桓武天皇の皇女・伊都内親王を母に持ち天長2年(825)に誕生しました。
父方の血筋をたどれば平城天皇の孫・桓武天皇の曾孫、母方の血筋をたどれば桓武天皇の孫にあたります。
血筋を見れば、非常に高貴な身分でしたが、薬子の変によって皇統が嵯峨天皇の子孫へと移行されます。よってその後、在原業平を含め阿保親王の息子たちは、皇族の身分を捨て臣籍に降下することとなりました。
こうして在原業平は、天長3年(826)に在原業平朝臣と名乗ることとなります。
仁明天皇時
承和12年(845)仁明天皇時の朝廷では在原業平は左近衛将監に蔵人を兼ねて天皇の身近につかえていたとされます。天皇家の血筋を受け継いでいた在原業平でしたが文徳天皇時まで官職に就いた記録はなく、不遇な時期であったようです。
清和天皇時
文徳天皇が崩御し清和天皇に仕えていた際には、貞観4年(862)に左兵衛権佐、左近衛権少将、右近衛権中将と武官を歴任し、貞観15年(873)には従四位下に昇叙されます。
陽成天皇時
陽成天皇時も順調に昇進を果たし、元慶元年(877)に従四位上、元慶3年(879)には蔵人頭に叙任されます。
在原業平の最期
晩年、在原業平は蔵人頭の要職に就きます。そして元慶4年(880)5月28日、在原業平は56歳にして、この生涯を終えました。
在原業平の和歌
在原業平が詠んだ小倉百人一首に収録される代表的な和歌でを以下に紹介します。
一見、竜田川を背景とした風景を描写しているように思えますが、清和天皇の后として入内する前に恋愛関係を持っていた藤原高子を思い詠った歌とされています。
「古今和歌集」に収録
在原業平の亡き後、「古今和歌集」に在原業平の和歌30首が収録されています。
「古今和歌集」とは醍醐天皇の勅命によって延喜5年(905)、紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑により編纂されたもので、延喜12年(912)頃に完成したとされています。
主人公のモデルとなった「伊勢物語」
「伊勢物語」は作者不明の物語で平安初期に書かれたとされますが具体的な成立時期は分かっていません。
しかし主人公のモデルは在原業平とされており、在原業平没後の出来事も忠実に描かれているため成立時期は元慶4年(880)以降と推測されています。
全125段からなり、ある男の元服から死にいたるまでを数行程度の平仮名の文と和歌で作った章段を連ねることによって描かれました。
各話の内容は朝廷内での恋愛模様、友情、政治的な駆け引きなど多岐にわたり、その中でも在原業平に関連しない物語もあるため、単に人間関係を描いた物語ともされています。
在原業平の生涯をモデルとした「伊勢物語」には多くの在原業平の女性関係について記されています。「伊勢物語」に記述された在原業平の女性関係に関する逸話をいくつか紹介していきます。
親友の娘を妻に
在原業平は10歳年上の歌人である紀有常と大変深い交流を持っていました。
そんな紀有常の娘を在原業平は自身の妻として迎え、2人の間には息子である在原棟梁が誕生します。
しかし、その一方で伊勢斎宮であった妻の従姉妹とも男女関係があったとされています。
藤原高子との熱愛
当時、朝廷では藤原家が権力を握っており、藤原高子は後の清和天皇の女御候補として大切に育てられていました。
女御候補として入内する前に藤原高子は東五条院にて生活をしていたようです。
そんな女御候補として育てられた藤原高子と男女関係にあった在原業平は東五条院に通います。
その後2人は駆け落ちを決意し、屋敷を抜け出しますが、失敗に終わりました。
権力を握っていた藤原家の娘と駆け落ちをすることは、当時、朝廷内でも大きなスキャンダルとなったようです。
絶世の美女、小野小町との熱愛
小野小町はなぞに包まれた女性ですが、絶世の美女だったとされています。
そんな小野小町に文を送った在原業平でしたが、「その気はない」といった文を突き返されたといった逸話が記述されています。
3733人との女性関係
鎌倉時代に成立された「和歌知顕集」には在原業平が3733人もの女性と関係を持ったと記述されています。
事実かどうかは不明ですが、在原業平が身分に関係なく高貴な女性たちとの禁忌の恋を繰り返していたことがわかります。
在原業平はイケメンだった
「伊勢物語」によると在原業平は女性関係につきなかったとされますが、在原業平はどのような容姿だったのでしょうか。
在原業平の亡き後に成立した「日本三代実録」には天安2年(858)8月から仁和3年(887)8月までの30年間の節会や祭祀など年中行事の執行、詔勅や表奏文の内容などが記述されました。
その中には在原業平について「体貌閑麗、放縦不拘」また「略無才学、善作倭歌」と記述が残されています。
この記述をわかりやすく解説すると、在原業平はイケメンであり、性格も自由奔放であった。漢籍についての知識は乏しかったが優れた和歌をよく詠っていたということとなります。
このことから在原業平は容姿に優れた男性であったと分かります。
最後に
有名な和歌「ちはやふる…」などを残し自由奔放かつイケメンであった在原業平朝臣は、その容姿と和歌の才能を武器に多くの女性と関係を持ちました。
モデルとされた「伊勢物語」では在原業平朝臣の女性関係を知ることのできる唯一の資料です。
「伊勢物語」を通して平安時代の恋愛事情を覗いてみるのもいいかもしれません。