戊辰戦争の最終戦として必ず歴史の教科書で登場するのが箱館戦争(五稜郭の戦い)と土方歳三(ひじかたとしぞう)の死ですが、この戦いで新政府軍と最後まで戦った旧幕府軍の将だったのが榎本武揚(えおのもとたけあき)です。
しかし、榎本武揚の名前が歴史書などに登場するのはこの函館戦争で投降した所までです。その後の榎本武揚が明治政府で多大な貢献をし「最良の官僚」とまで言われた事はあまり知られていません。
なぜ晩年の榎本武揚に脚光があたらなかったのかは、旧幕府と新政府両方に仕え「忠臣は二君に仕えず」という考え方があったからかもしれません。
そんな榎本武揚の生い立ちから、晩年の生きざままで家系図なども見ながら子孫のその後など詳しく説明していきたいと思います。
また、榎本武揚を調べると資生堂というワードが出てきます。資生堂といったいどう関りがあるのかも詳しく調べていたいと思います。
榎本武揚の生い立ち
理系街道まっしぐら軍艦操練所教授になる
榎本武揚は天保7年(1836年)幕臣・榎本武規(えのもとたけのり)の次男として江戸で生まれました。
幼少期に儒学を学び、15歳で幕府直轄の昌平坂学問所に入学、20歳の時に長崎海軍伝習所に正式に入学し、機関学や化学を学び2年後には築地・軍艦操練所教授となります。
オランダから帰国後海軍副総裁となる
文久2年(1862年)26歳から5年に渡りオランダに留学、フレデリックスについて万国海律を学び、フランスやイギリスにも赴き造船所や機械工場、鉱山などを視察、語学をはじめ、軍事、国際法、化学など広い知識を得ます。
慶応3年(1867年)3月、幕府の軍艦開陽丸に乗って帰国、同艦の船長に任命されると同年9月にたつと結婚、慶応4年(1868年)には海軍副総裁となりました。
戊辰戦争
新政府の軍艦引き渡しを拒否徹底抗戦へ
慶応3年(1867年)ついに将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が政権返上を上奏、大政奉還が成立、大政奉還後、戊辰戦争へと突入しました。
榎本武揚は、上野戦争で幕府が崩壊したのちも江戸開城に伴う降伏条件の一つである幕府軍艦の新政府への引き渡しを拒否。
旧幕軍勢力を支援しつつ開陽丸をはじめとする8艦の旧幕府艦隊を率いて、奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)の支援に向うべく品川沖から脱走します。
旧幕臣と共に最終地蝦夷地へ
しかし、榎本武揚が仙台藩に謁見した時には、奥羽越列藩同盟は崩壊しており仙台藩も降伏を決定していました。
新政府の仙台藩入城を受けて、榎本武揚は桑名藩主・松平定敬(まつだいらさだあき)、大鳥圭介(おおとりけいすけ)、援軍を求めて仙台に北上していた土方歳三をはじめ新選組の生き残り・旧幕臣の伝習隊、衝鋒隊、仙台藩を脱藩した額兵隊など約3,000名を軍艦に収容して蝦夷地を目指したのです。
箱館戦争と投降
榎本武揚率いる旧幕府軍は箱館に進軍して五稜郭を占領、榎本武揚は五稜郭に入城します。その後、蝦夷地平定を宣言し、士官以上の選挙により榎本武揚は総裁となったのです。
しかし、圧倒的な新政府軍の銃武力に激しい戦闘が続き戦況は好転することなく、新政権を宣言した翌年5月には、総攻撃で追い詰められ新政府軍の総指揮を務めた黒田清隆(くろだきよたか)の降伏の説得に応じ、投降投獄されました。
明治政府で第二の人生を歩む
黒田清隆・福沢諭吉の榎本武揚助命嘆願運動
箱館戦争で投降する前に「万国海律全書」を戦火から守る為に、新政府軍へ贈りそれを見た黒田清隆は、榎本武揚という人材の重要性を認識し、榎本武揚投獄後、黒田清隆と福沢諭吉は榎本武揚の助命嘆願に奔走し榎本武揚は特赦により出獄します。
明治新政府で数々の要職につき貢献
出獄後、黒田清隆が次官を務めた開拓使に登用され北海道開拓の調査に従事、その後、ロシア駐在公使となって樺太・千島交換条約を締結しました。
その後も数々の外交交渉の調印などに活躍し、初代・伊藤博文内閣で初代逓信大臣となり子爵となります。
以後、文部大臣、農商大臣、外務大臣などを歴任し、東京農業大学の前進・育英黌農業科(いくえいこうのうぎょうか)の開校、メキシコ移住など晩年まで幅広く活躍しました。
土方歳三との関係
榎本武揚と土方歳三の出会い
榎本武揚と土方歳三との出会いは、まさに奇遇と言えます。お互いに、新政府軍と戦い敗走しながら北上し、仙台で初めて遭遇したにも関わらず意気投合して共に戦う事となるのです。
土方歳三の死の際の榎本武揚
榎本武揚と土方歳三との親しかった逸話や詳しい資料などは残っていませんが、新政府軍の総攻撃が始まり土方歳三はわずかな軍勢で出撃し射撃され命を落とします。
その知らせを聞いた榎本武揚は怒り自ら出撃しようとするも、総裁の立場があり周りに引き止められてしまいました。
土方歳三の親族に贈った書
明治政府の職に就いてそれなりの地位になっていた榎本武揚の元に、土方歳三の親族が訪ねた際には大変歓待して手土産の地酒を飲みながら「入室伹清風」(にゅうしつしょせいふう)という書を手渡したと言います。
「入室伹清風」とは、土方歳三が部屋に入ってきたら清らかな風が吹くかの如く人物だと言う意味で、現在も土方歳三記念館に展示されているのです。
このことからも、人生の中では短い間柄ではあっても同志としての絆は深かったことが伺われます。
黒田清隆との関係
榎本武揚が明治の世となり「最良の官僚」と言われ活躍できたのも、箱館戦争の投降後、当時の敵将である黒田清隆が、丸坊主になり身を挺して榎本武揚の助命嘆願に奔走したから故です。
その後、敵味方の将であった榎本武揚と黒田清隆には友情という絆が芽生え、数々の外交処理や大臣を歴任した榎本武揚は黒田清隆が内閣総理大臣になった時にも重要ポストで黒田清隆を支えていきました。
遂には、榎本武揚の長男と黒田清隆の娘が結婚し血縁関係にも発展、黒田清隆の葬儀の際も郷里の薩摩閥の同志ではなく、榎本武揚が葬儀委員長を務めたのです。
榎本武揚の子孫
榎本武揚は妻・たつとの間に三男三女をもうけ榎本家は長男の榎本武憲(えのもとたけのり)が家督を継ぎました。
榎本武揚の長男・武憲は内閣総理大臣を務めた黒田清隆の娘と結婚しており、榎本家と黒田家は縁戚関係で現在まで交流を続けています。
榎本武揚の曾孫
榎本隆充氏(えのもとたかみつ)
東京農業大学客員教授。
北原明子氏
日本を代表するインテリアデザイナー北原進氏(いたはらすすむ)の妻でデザイナーの北原明子氏・旧姓黒田明子(きたはらあきこ)
榎本武揚の縁戚(兄の子孫)・石黒賢氏(いしぐろけん)
俳優。
榎本武揚の父・榎本武規
また、家系として注目するのは榎本武揚の父・榎本武規ですが、大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)の作成をした伊能忠孝(いのうただたか)の一番弟子で実際に九州測量以降実測に同伴し貢献しています。
資生堂との関係
榎本武揚を調べていると、ネットなので資生堂というワードが出てきます。資生堂と言えば日本を代表する化粧品ブランドの会社です。いったい榎本武揚とどう繋がるのか詳しく調べてみました。
榎本武揚が元で資生堂が誕生?
榎本武揚は五稜郭の戦いの後投獄されましたが、その間に自身の兄に向けて残される家族の生計の足しにと「開成雑俎」(かいせいざっそ)という本を書き上げます。
その内容は、鶏やカモの人工ふ化器、焼酎、石鹸、西洋ロウソクなどの製法を図解入りで書き表したもので、やたらと他人にみせないようにと榎本武揚が釘をさすすほどの貴重な内容でした。
その本を読んだ榎本武揚の遠い親戚の一人が 石鹸の製法を元に製造販売を家業とし数年後には会社を設立、その名を資生堂としたのです。
このような内容でネット上に拡散されていますが、事実はどうなのでしょうか。
真実は謎
実際に資生堂の社史を確認するとこのような記述は無く、創業者の福原有信(ふくはらありのぶ)が榎本武揚の推挙で海軍病院薬局長であったことは確認できましたが、資生堂の前進は銀座の薬局で資生堂が製造して大反響を得、海軍でも評判となったのは歯磨き石鹸であるとされています。
この歯磨き石鹸が単なる石鹸と呼ばれていて、榎本武揚の開成雑俎の中の石鹸なのかもしれませんが、真実なのかどうかは確認ができませんでした。