藤田東湖。こう書いて「ふじたとうこ」と読みます。簡単に言えば、水戸藩士であり、水戸学藤田派の思想を受け継ぐ学者です。
藤田東湖とはどのような思想を持ち、また彼が残した正気の歌とは、どのようなことを伝えているのでしょうか。
彼の思想、西郷隆盛との関係、子孫の情報などを含め、その生涯を解説していきたいと思います。
藤田東湖とは
水戸学藤田派を継承
1806年、水戸城下にあった藤田家屋敷にて、彰考館の総裁を務めた水戸学者の父・藤田幽谷、母は町与力丹氏の娘の梅の次男として誕生します。
長男の熊太郎は東湖が生まれる前に早世していたために、藤田東湖は嗣子として育てられることになります。
1827年、藤田家を継いだ東湖は、彰考館総裁代役を務め、敵対していた立原派との和解に尽力し、水戸学者としての地位を確立しました。
ちなみに、彰考館とは、テレビ時代劇で有名な水戸黄門こと徳川光圀が大日本史の編纂を行う場を小石川藩邸に移した際、光圀自身が命名した史局になります。
斉昭謹慎で東湖失脚
1844年5月、徳川斉昭が仏教弾圧事件、鉄砲斉射事件等による罪を問われ、幕命による謹慎処分を受けます。斉昭の側用人だった東湖もその煽りを受け、小石川藩邸に幽閉され、禄を剥奪されてしまいました。
1845年2月、小梅藩邸へと移されますが、その幽閉生活の中で、弘道館記述義・常陸帯・回天詩史等の著書ほか、正気の歌、回天詩史等の名文も残しています。
のちに、この書籍に書かれた思想、理念が、幕末の志士に多大なる影響を与えることとなります。
1847年、水戸城下竹隈町にある蟄居屋敷に移された後、5年後の1852年、ようやく処分が解かれ、長い幽閉・蟄居生活を終えます。その際、名を東湖と改めています。
ペリー来航で側用人に復帰
1853年、浦賀にペリーが来航し、徳川斉昭が海防参与として幕政に復帰すると、東湖も江戸藩邸へ戻り、江戸幕府海岸防禦御用掛として、斉昭を補佐します。この時、側用人として、復帰しています。
安政の大地震で東湖が死去
1855年、安政の大地震発生。この大地震の犠牲者の数は1万人、倒壊家屋は14346戸と記録されています。
震度は4~6。江戸だけでなく、今でいう神奈川、埼玉等の関東ほか、栃木、山梨、静岡、長野等と広い範囲に被害が出ています。
東湖はこの日、藩政のことを相談するため、家老の岡田兵部宅を訪問しますが、その相談を途中で切り上げ、自宅に戻った時に遭遇しています。
地震発生時は母とともに脱出を図りますが、母が火鉢の火を心配して邸宅へと戻ったため、その母を追い、再び邸宅へと戻ります。
その際、焼け落ちて崩れてきた鴨居から母を守るため、自身の肩で受け止め、母を救い出した後、鴨居の下敷きになり、圧死しています。享年50歳。
母想いの東湖をしのび、小石川藩邸跡に記念碑が建てられましたが、道路拡張により、現在は、小石川後楽園に移されています。
ちなみに、小石川後楽園は、水戸徳川家の上屋敷内に造られた大名庭園になります。桜、梅、紅葉等、季節の花が咲き乱れる国の特別史跡、および特別名勝に指定されている日本庭園になります。
藤田東湖の思想
水戸藩で家老を務めた戸田忠太夫と東湖は、徳川斉昭の腹心として活躍しますが、その働きから、水戸の両田と称されました。尊王の志をもつ水戸学の継承者である彼らに、斉昭の参政を務めた武田耕雲斎を加え、水戸の三田とも言われています。
その東湖の思想の基本は、尊王攘夷。水戸学の基本でもある攘夷理論は、国家的危機をいかにして克服するかにあり、それに対し、独特な主張をもつのが、水戸学になります。
正気の歌とは?
正気の歌は、元々は南宋の文天祥がつくった憂国の詩になります。東湖は、この歌に自身の思いを乗せ、自作の正気の歌をつくりました。
抜粋して、現代語訳で紹介します。
正気の歌は東湖だけでなく、吉田松陰も同名の作品を残しています。
西郷隆盛との関係について
西郷隆盛と藤田東湖が会ったのは、1854年です。
樺山三円とともに、東湖の許を訪れた西郷隆盛は、東湖の印象を、「東湖先生は山賊の親分のよう。心に曇りひとつない清らかな心になった、思わず、帰り道を忘れてしまうくらいだった」と回想しています。この時、東湖49歳、西郷隆盛28歳でした。
のちに男爵となった米田虎雄氏によると、東湖と西郷隆盛はよく似た性格の持ち主であったそうです。どちらも体格が良く、風貌だけで豪傑と言われた人でしたが、誰に会っても分け隔てなく挨拶する、謙虚な人だったと語っています。
藤田東湖の子孫
藤田東湖には、長男・小野太郎、次男・建二郎、三男・大三郎、5名の娘、妾の土岐さきが産んだ四男・小四郎がおります。
長男は早世し、四男・小四郎は安政の大地震で父である東湖を失った後、水戸藩過激派の首領格として活躍しますが、筑波山にて挙兵した際、加賀藩に捕縛され、敦賀の来迎寺にて処刑されます。享年24歳でした。
さて、東湖の子孫ですが、来孫にあたる藤田英明氏は、株式会社 日本介護福祉グループ代表取締役会長として、藤田章氏は大成建設相談役として、活躍されています。