西郷隆盛は安政の大獄でその身を追われた際、ある人物と共に入水自殺を試みたことがあります。それが、幕末の尊王攘夷派の僧侶・月照です。
西郷隆盛とは一体どのような関係だったのかということも含め、この月照上人の生涯について、詳しく解説していきたいと思います。
月照の生い立ち
文化10年(1813年)、月照は讃岐の国吉原(現在の香川県)に、大坂の町医者・玉井宗江の長男として生まれます。
月照が14歳の時、叔父の蔵海が住職をしていた京都の清水寺成就院に入り、23歳になった月照は成就院の住職となりました。
このまま生まれ故郷の讃岐で過ごし、一人の僧侶として人生を全うすることもできましたが、月照はそうならずに、幕末の動乱に巻き込まれていくことになります。
尊王攘夷の思想を持つ
1853年にペリーの黒船が日本に来航し、それがきっかけで海外列強から日本を守ろうとする尊王攘夷の考え方が京都で広まります。
月照もその尊王攘夷の考え方を支持する一人で、彼は孝明天皇のために攘夷が成功するよう祈祷を行い、海外列強の脅威から日本を守ろうとしました。
ペリー来航の翌年、月照は尊王攘夷運動に集中するため、弟・信海に住職の座を譲っています。
月照と西郷隆盛の関係は?共に入水自殺するほどの絆
月照と西郷隆盛の関係は、同じ目標に向かって共に戦った、まさに同志と言えるものです。
もともと、清水寺には、薩摩藩主・島津斉彬の親戚に当たる公家・近衛忠煕(このえただひろ)が出入りしており、月照はこの近衛忠煕から和歌を学んでいました。
近衛忠煕は当然、薩摩藩士と近い関係だったため、その側にいた月照も西郷隆盛や儒学者・梅田雲浜らと交流するようになります。
将軍嫡子問題で共闘
当時の第13代将軍・徳川家定は病弱で子供がおらず、さらに脳性麻痺を患っていた疑いがあり、政治の舵を取る能力に不安を感じられたため、次の世継ぎをどうするかという将軍嫡子問題が起こっていました。
第14代将軍の候補としては、薩摩藩の島津斉彬らが推す一橋慶喜(徳川慶喜)と、大老・井伊直弼らが推す徳川慶福(家茂)の二人がいました。
同じ一橋派として、月照は西郷隆盛と一緒に有力者と会うなどし、慶喜を次の将軍にするために活動します。
西郷の自殺を止める
しかし、井伊直弼は大老の権限を使い、徳川慶福を次の将軍に決めてしまいます。そして、自らに逆らった人物を処罰するために、安政の大獄という大弾圧を始めました。
これにより、一橋派として活動していた月照と西郷隆盛は幕府から危険人物として目をつけられ、梅田雲浜らは既に逮捕されてしまっていました。
この厳しい状況からさらに追い打ちをかけるように、西郷が崇敬して仕えていた主君・島津斉彬が突然死してしまいます。この斉彬の死は西郷を悲嘆の底に沈ませ、主君を追って自殺することを考えるまでに西郷は弱ってしまいました。
しかし、その西郷の自殺を止めたのがまさに月照で、彼の励ましにより、西郷は生きる気力を取り戻したのです。
藩から「日向国送り」の命令が下る
西郷隆盛は幕府の手から逃れるために、月照を故郷の薩摩へ連れて逃げ帰ります。
斉彬の死後、薩摩藩の実権は弟の島津久光が握っていましたが、薩摩藩は西郷に対し、月照を「日向国送り」にするよう命令します。
「日向国」は現在の宮崎県のことですが、それは文字通り日向国に連れていくということではなく、実際は「日向国の国境まで進んだら月照を斬りすてよ」という命令なのです。
共に入水自殺を試みる
西郷は、共に戦った同志である月照を切り捨てるなど出来るはずもなく、かと言って藩の命令に背くこともできませんでした。
ならばせめて一人では逝かせはしない…そう思った西郷は、ある決断を下します。それは、共に入水自殺することでした。
二人が国境へ渡る藩の船へ乗り、いよいよ追い詰められた際に、11月の寒い錦江湾へ西郷と月照は固く抱き合いながら一緒に身投げしたのです。
この時、一緒に船に乗っていた平野国臣が二人を引き上げ、西郷は息を吹き返しましたが、月照は既に亡くなっていました。享年46歳でした。
月照を失った西郷は一生悔やむことに
命が助かった西郷は、その後、藩に匿われて奄美大島へ送られ、「菊池源吾」と名を変えて潜伏します。
西郷は月照の死を一生悔やんでいたと言われており、後年、明治時代になって月照の墓を訪れ、西郷はそこで涙を流して慟哭したそうです。
月照と西郷隆盛の関係は、共に死ぬことを選ぶほど、強固な絆で結ばれた同志と言えるのではないでしょうか。
月照と西郷の辞世の句
さいごに、西郷と月照が錦江湾へ身投げする前に書いた辞世の句を紹介して終わりにしようと思います。
月照の辞世の句
【意味】大君(孝徳天皇)のためならば、薩摩の海に身が沈もうとも何も惜しくはない
西郷隆盛の辞世の句
【意味】自らが信じたただ一つの道のためなら、波風が立とうが、この身をうち捨てられた小舟同様に捨てよう
ここでいう「二つなき道(=ただ一つの道)」とは、月照と同じく尊王攘夷の志のことです。