後醍醐天皇とは鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇です。
天皇を中心とした政治を復興させるため「建武の新政」を実施するも失敗に終わり、吉野に皇居を移し南朝政権の樹立に至りました。
そんな後醍醐天皇の生涯、行ってきた政治、隠岐の島への島流しについて解説していきます。
後醍醐天皇の生い立ち
後醍醐天皇は、正応元年(1288)11月2日に父に大覚寺統の後宇多天皇、母に内大臣花山院師継の養女・藤原忠子を持ち第二皇子として誕生します。
後醍醐天皇の誕生した当時の皇室には、大覚寺統、持明院統の2つの系統があり、この大覚寺統と持明院統はしばしば後継者争いによって対立していましたが、幕府によって大覚寺統、持明院統、交互に皇位を継承し院政を行うことが認められた時代でした。
即位
徳治3年(1308)持明院統の花園天皇の即位に伴い後醍醐天皇は皇太子となり、文保2年2月26日(1318)には花園天皇の譲位を受けて31歳という若さで天皇へと即位します。
この30代での即位は後三条天皇の36歳での即位以来、250年ぶりとされました。
即位後の3年間は父・後宇多法皇が院政を行います。
鎌倉幕府への反感
後醍醐天皇は天皇となりますが、父・後宇多法皇の遺言状によって後醍醐天皇の兄・後二条天皇の遺児である皇太子・邦良親王が元服し皇位につくまでの間のみの中継ぎの天皇として位置づけられていました。
よって後醍醐天皇の子孫には皇位継承はされないということとなります。
このことに不満を持っていた後醍醐天皇は、父・後宇多法皇の継承問題を承諾、保証していた鎌倉幕府に反感を抱くようになりました。
元亨元年(1321)、父・後宇多法皇の院政が終えると後醍醐天皇による新政が始まりました。
倒幕計画の発覚
1度目の倒幕計画
後醍醐天皇は鎌倉幕府打倒の計画を立てていました。
しかし正中元年(1324)、この倒幕計画が発覚していまい、六波羅探題が天皇側近・日野資朝らを処分するといった正中の変が起こりました。
この変では後醍醐天皇の処分はされず、その後も後醍醐天皇による倒幕計画が密かに行われます。
元徳2年(1329)には中宮の御産祈祷と称して密かに倒幕計画成功の祈祷を行い、興福寺や延暦寺などの寺社勢力とも関係を持ちました。
しかし、大覚寺統に仕える貴族たちは倒幕に反対するものが大多数で、後醍醐天皇は窮地に陥っていきます。
2度目の倒幕計画
元弘元年(1331)再び、後醍醐天皇の倒幕計画は側近・吉田定房によって発覚されます。
この2度目の倒幕計画の発覚によって後醍醐天皇は命の危険を感じ、京都を脱出することを決断します。
脱出の際、京都にある笠置山にて籠城しますが、幕府にとって落城され後醍醐天皇は捕らえられました。
この一2度目の倒幕計画運動は元弘の乱と呼ばれます。
島流し
幕府によって捕らえられた後醍醐天皇は即、廃位となり、皇太子量仁親王が即位となりました。
その後、後醍醐天皇は正慶元年(1332)に隠岐の島へと島流しされます。
この時期は後醍醐天皇だけではなく鎌倉幕府に抵抗するものが各地で活躍しており、後醍醐天皇の皇子護良親王、楠木正成、赤松則村らが反幕府勢力の人物としてあげられます。
隠岐の島からの脱出
正慶2年(1333)悪党と呼ばれた武士、名和長年ら名和一族を頼り後醍醐天皇は隠岐の島を脱出します。
脱出に成功した後醍醐天皇は、伯耆船上山にて倒幕に向け挙兵しました。
この挙兵を阻止するために幕府から派遣された足利高氏は後醍醐天皇に寝返り、六波羅探題の攻略に成功します。
建武の新政
京都へと戻った後醍醐天皇は皇太子量仁親王の即位と自らの退位を否定します。
そしてこれまでに行われてきた人事を全て無効にし、鎌倉幕府や摂関を廃止して天皇を中心とした建武の新政を開始します。
また、父・後宇多法皇の遺言に反し、自らの子孫により皇統を独占する意思を表明しました。
この建武の新政では、天皇先制を目指したもので皇族や貴族だけが優遇され、武士勢力の不満は大きくなり、また大内裏建設計画、紙幣発行計画などの非現実的な経済政策などによって後醍醐天皇の行った建武の新政は無能さを批判され、その権威は落ち込む一方となりました。
足利高氏の反乱
隠岐の島脱出の際、味方に付いた足利高氏はこの建武の新政に対して不満感を抱くようになりました。
建武の新政に不満を抱く足利高氏に対し後醍醐天皇は新田義貞に討伐を命じます。
新田義貞は1度足利軍に敗れるも、楠木正成や北畠顕家らと共に挙兵し足利軍を破り、その際、足利高氏は九州へと落ち延びました。
その後、楠木正成は後醍醐天皇に足利高氏との和睦を提案しますが、後醍醐天皇はこれを拒否し、再び楠木正成、新田義貞に足利高氏の討伐を命じます。
楠木、新田軍と足利軍との湊川の戦いでは楠木・新田軍は敗北し、楠木正成は討死となりました。
南北朝時代のはじまり
湊川の戦いで楠木、新田軍に勝利した足利高氏が京へと入洛すると後醍醐天皇は比叡山に逃れ対抗するも、足利高氏との和睦に応じます。
その後足利高氏は、持明院統から光明天皇を新天皇に擁立し、室町幕府の施政方針を示した式目、建武式目を制定して新たな幕府、室町幕府を開設しました。
これに対し、後醍醐天皇は自らが正当な天皇であると主張し、吉野(現在の奈良県)に自らが主宰する朝廷を開きます。
これによって京都の北朝、吉野の南朝が誕生しました。
後醍醐天皇の最期
後醍醐天皇は北朝に抵抗するため、全国各地に自身の息子を派遣し、北朝に対抗するように命じます。
しかし劣勢を覆すことができないまま後醍醐天皇は病に倒れ、暦応2年(1339)8月15日に義良親王に譲位し、翌日、吉野金輪王寺で崩御しました。
この時、後醍醐天皇52歳であったとされています。
後醍醐天皇の家系図
後醍醐天皇の家系図を辿れば、後嵯峨天皇にたどり着きます。
その後嵯峨天皇の息子である兄・後深草天皇と弟・亀山天皇は兄・後深草天皇が持明院統、弟・亀山天皇が大覚寺統と2つの系譜に分かれました。
後に持明院統、大覚寺統で交互に皇位についていくこととなります。
本来、即位することができなかった後醍醐天皇
後醍醐天皇は天皇家の血を継いでいましたが、大覚寺統の系譜において天皇家に直系しておらず亀山天皇‐父・後宇多天皇‐後二条天皇‐邦良親王が正当な系譜となります。
このように本来であれば後醍醐天皇は皇位につくことのない人物でした。
しかし、後二条天皇が23歳の若さで崩御した後、中継ぎの天皇として、まず持明院統の花園天皇が10年皇位につき、大覚寺統の父・後宇多法皇の遺言によって中継ぎの天皇ではありますが、天皇として後醍醐天皇は即位することができました。
中継ぎ天皇には皇位の世襲が崩れるため天皇の皇子に皇位継承権は与えられません。
このことにより、後醍醐天皇による倒幕計画がなされました。
南朝の第2代天皇
後醍醐天皇は南朝初代の天皇としましたが、後醍醐天皇崩御後は、息子・義良親王が即位し、後村上天皇として南北朝時代の第97代天皇、南朝第2代天皇となりました。
その後は、村上天皇の息子・長慶天皇が南北朝時代の第98代天皇、南朝第3代天皇となり、再び、大覚寺統と持明院統の両統迭立による院政が行われます。
さいごに
後醍醐天皇は天皇中心の政治を行うため建武の新政を実施し、自らを正当な天皇と主張し奈良の吉野に南朝を築いた人物でした。
大覚寺統の系譜には後醍醐天皇は天皇家に直系している人物ではないとされていますが、明治44年(1911)に帝国議会が南朝の天皇を正統と定めたため、足利尊氏が擁立した光明天皇など、北朝時代の天皇などは歴代の天皇として認められません。
日本の南北朝時代において南朝と北朝のどちらを正統とするか論争された、南北朝正閏論ではどのような判断で南朝を天皇の正統であると判断したのか、興味をかきたてられます。