長谷川等伯とは?生涯や狩野永徳との関係性、松林図屏風などの有名作品について解説!

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代表作「松林図屏風」で知られる長谷川等伯は安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した絵師です。

元亀2年(1571年)頃に上洛した長谷川等伯は狩野派や中国絵画の様式を学び、絵画制作を行いました。

豊臣秀吉や千利休などから重用され、当時、画壇として最も力を持っていた狩野派を脅かすほどの絵師となります。

そんな長谷川等伯の生い立ちや狩野永徳との関係性、「松林図屏風」などの有名な作品について解説していきます。

長谷川等伯の生い立ち

長谷川等伯は天文8年(1539年)現在の石川県七尾市である能登国七尾で誕生しました。

父・奥村文之丞宗道は能登国の戦国大名であった畠山氏に仕える下級家臣であったとされています。

幼少期に染物業を営んでいた奥村文次の仲介で、同じく染物屋を営んでいた長谷川宗清(宗浄)の養子として迎えられました。

長谷川等伯の父となった長谷川宗清(宗浄)はもともと雪舟の弟子・等春の門人として仏画などの制作を行っていたとされています。

そのため、10代後半から養子先の長谷川宗清(宗浄)から絵の手ほどきを受けていたとされ、長谷川宗清(宗浄)が熱心な日蓮宗の信者であったことから長谷川等伯は初め法華に関連した仏画や肖像画などの制作にあたりました。

この頃は「長谷川信春」と名乗っていたとされています。

 

「長谷川等伯」の名前の由来

後に「長谷川等伯」と名乗ることとなるのですが、長谷川等伯は雪舟の弟子・等春から絵を学んだことはないものの、『等伯画説』の画系図において等春を自分の師と位置付けており、「長谷川信春」の春や、「長谷川等伯」の等は等春の名前から取ったものと考えられています。

 

京都に足を運び、絵画様式を学ぶ

長谷川等伯が絵の制作を始めた頃、七尾は畠山氏の庇護を受け非常に栄えた町に発展していました。

そのため「小京都」と呼ばれていたとされています。

七尾で描いたとされる長谷川等伯の作品には京都でも手に入らないような、良質な顔料が使用されており当時、七尾が栄えていたということが分かります。

長谷川等伯は七尾に留まり絵画の制作を行っていたわけではなく、何度か京都に足を運び法華宗信仰者の多くいる京都の町で技法や図様を学んでいたとされています。

上洛

長谷川等伯が33歳となった元亀2年(1571年)、長谷川等伯の養父母が亡くなります。

これを機に、長谷川等伯は妻と息子・久蔵を連れ上洛しました。

上洛した長谷川等伯らは本延寺の本山本法寺の塔頭教行院に寄宿したとされ、翌年には30歳で亡くなった本法寺八世住職・日堯の肖像画を描きました。(日堯上人像)

その後、天正17年(1589年)まで長谷川等伯の活動の記録は残されていませんが、長谷川等伯は当時、主流であった職業画家集団である狩野派の狩野松栄の門人となり絵画様式を学もすぐに辞めてしまったとされています。

その後、京都と堺を行き来するようになり、堺出身の千利休や日通と交流を持つようになりました。

 

独自の様式を確立

当時主流であった狩野派の様式を学んでいた長谷川等伯は、狩野派の様式のみならず中国絵画にも触れるようになり、牧谿の『観音猿鶴図』や真珠庵の曾我蛇足の障壁画などを目にする機会があったとされています。

狩野派や中国絵画の様式を吸収し、独自のスタイルを築き始めたのは上洛後とされ『花鳥図屏風』や『武田信玄像』『伝名和長年像』などを残しました。

天正11年(1583年)には大徳寺の頭塔である総見院に自身の絵を送ったとされ、寺院の要請を受け絵を制作するといった大きな仕事も受けるようになっていました。

 

「長谷川等伯」の名前を使用し始める

天正14年(1586年)長谷川等伯は豊臣秀吉が造営した聚楽第の襖絵を狩野永徳とともに制作にあたります。

天正17年(1589年)になると千利休から依頼され大徳寺山門の天井画と柱絵の制作にあたりました。

「長谷川等伯」の名前を用いるようになるのは、大徳寺山門の天井画と柱絵の制作から間もなくのこととされています。

ライバル、狩野永徳

天正18年(1590年)長谷川等伯は前田玄以と山口宗永に対し、豊臣秀吉が造営した仙洞御所対屋障壁画の制作の注文を得ようとします。

仙洞御所対屋とは天皇の奥方の住まいのことで、そのような部屋の障壁画の注文は長谷川等伯にとって非常に大きな仕事でした。

しかし、これを知った狩野永徳は一地方絵師にそのような大きな仕事をとられるわけにはいかない。と狩野光信と勧修寺晴豊に対し、長谷川等伯を仙洞御所対屋障壁画の制作から外すよう要請しました。

狩野永徳とは当時画壇のトップにいた絵師で、長谷川等伯のような地方から進出してきた絵師に宮中での仕事を取られることは非常に屈辱的なことでした。

このような経緯から狩野永徳は長谷川等伯にライバル心を抱いていたことが分かります。

 

狩野派と並ぶ存在となる

結局、長谷川等伯は仙洞御所対屋障壁画の制作から外されることとなりますが、この1か月後に狩野永徳が亡くなったため、天正19年(1591年)長谷川等伯は再び祥雲寺(現智積院)の障壁画制作を依頼されるようになりました。

長谷川等伯が描いた祥雲寺(現智積院)の障壁画は豊臣秀吉に高く評価され、以降、狩野派と並ぶほどの有名絵師となります。

 

「松林図屏風」の制作

絵師として立て続けに活躍をはたした長谷川等伯でしたが、天正19年(1591年)に交流のあった千利休が亡くなり、文禄2年(1593年)には跡継ぎと考えていた嫡男・久蔵が亡くなるといった不幸に相次いで見舞われることとなります。

このような不幸を乗り越え描かれた作品が「松林図屏風」で、後にこの作品は長谷川等伯の代表作となります。

自雪舟五代

私生活は不幸に見舞われていたものの、絵師としての活躍は続き慶長4年(1599年)本法寺に『涅槃図』を寄進して以降、長谷川等伯の落款には「自雪舟五代」と記されるようになります。

これは雪舟から絵の手ほどきを受けていないものの、自身が雪舟の5代目であるといった意味で、自らの画系と家系の伝統と正統性を主張したものでした。

「自雪舟五代」と落款に記して以降、長谷川等伯には次々と仕事が依頼されるようになり、その業績が称えられ慶長9年(1604年)に法橋に叙せられます。

翌年の慶長10年(1605年)には法眼に叙せられ、一地方絵師であった長谷川等伯は町の有名絵師として京都における有力者となりました。

 

長谷川等伯の最期

有名絵師となった長谷川等伯は慶長15年(1610年)、徳川家康から要請を受け江戸に向かいました。

しかし、道中で病を患い江戸に到着した2日後の慶長15年(1610年)2月24日、72歳で亡くなりました。

 

有名な作品

長谷川等伯の代表作品は「松林図屏風」です。

この作品は文禄2年(1593年)から4年(1995年)に制作されたものとされ、長谷川等伯が50代の頃に描いた作品と考えられています。

この絵が制作される直前に息子・久蔵が亡くなっているため、誰に依頼されたものではなく自分のために制作したとされるこの作品は、息子を失った長谷川等伯の悲しみが描かれていると言われています。

他にも「旧祥雲寺障壁画」や「波濤図」「萩芒図屏風」など多くの有名な作品が残されました。