2019年大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」に登場する可児徳(かに いさお)は実在する人物です。
東京高等師範学校の助教授であった可児徳は、東洋で初めてのIOC(国際オリンピック委員会)の委員となった嘉納治五郎と共にオリンピック実現に向け奔走しました。
そんな可児徳の生涯やオリンピックの逸話、読み方や東京高等師範学校の教授となった経緯について解説していきます。
可児徳の生い立ち
可児徳は「かに いさお」という珍しい名前の読み方をする人物です。
明治7年(1874)11月6日、岐阜県恵那郡苗木町で、父・可児吉右衛門の次男として誕生したとされています。
地元の斐太郡尋常小学校を卒業後、体操練習所(日本体育会体操学校)に入学し、普通体操と兵式体操の免許を取得しました。
その後、明治30年(1897)7月に体操練習所(日本体育会体操学校)を卒業し、同年10月に群馬県尋常中学校の教授に就任します。
翌年の6月には生理科の免許を取得し、その後、同年10月に沖縄県尋常師範学校の助教授として転任となりました。
東京高等師範学校の助教授として就任
明治32年(1899)6月、沖縄県尋常師範学校の助教授として働いていた可児徳でしたが、東京高等師範学校に体操専修科が開設され、その助教授として招かれることとなり、東京高等師範学校の助教授として就任します。
東京高等師範学校の助教授となった可児徳は、まず日本の体育の推進、発展のためには、当時日本よりも体育教育が発展していたドイツ式の体育を研究する必要性があると考え、可児徳は教授の職務を行う傍ら、官立外国語大学でドイツ語を学びました。
ドイツ語を学ぶために入学した官立外国語大学は2年で卒業したとされています。
普通体操とスウェーデン体操の統合
この頃になると、日本ではアメリカ式のスウェーデン体操が日本にもたらされます。
当時、日本の体育教育の一環である体操は文部省主体の普通体操、陸軍省主体の兵式体操が用いられていました。
しかしここに、アメリカ式のスウェーデン体操が日本にもたらされたことで、日本国内の体育教育は一体、どの体操を指導すべきなのかと混乱状態となっていました。
そこで文部省は普通体操とスウェーデン体操の統合を図ります。
そのために文部省は調査委員会を立ち上げると、文部省は可児徳を調査員の1人に指名しました。
もともと、調査員に選ばれた可児徳は普通体操を推していましたが、普通体操とスウェーデン体操の派閥争いがあり、結局、普通体操とスウェーデン体操の統合は失敗に終わりました。
統合は失敗に終わる
当時、文部省は普通体操、スウェーデン体操の統合を機に、陸軍省主体で行われていた兵式体操を文部省の支配下に置き、兵式体操を統廃合することで、陸軍省を排除しようという考えていました。
しかし、この計画を察知した陸軍省は兵式体操を陸軍が行えば、体育教師は不要であると主張し、普通体操やスウェーデン体操を兵式体操に統一することを目標と掲げ、文部省に圧力をかけます。
このような対立もあり文部省と陸軍省は調査委員会を立ち上げ、可児徳は調査委員として採用されたのでしたが、議論はまとまらず平行線に終わったのでした。
そこで、文部省は昭和38年(1963)12月、姫路中学校長の永井道明を海外留学に派遣させ、留学に行った永井道明の帰国を待って再び議論の仕切り直しをすることとなりました。
スウェーデン体操が主流となる
永井道明の帰国後、2回目となる文部省と陸軍省の調査委員会が設立されます。
しかし、永井道明は調査員として任命されましたが、可児徳は調査員に任命されませんでした。
こうして2回目となる普通体操とスウェーデン体操の統合は、スウェーデン体操を本場で学んできた永井道明が陸軍省を説得し、大正2年(1913)「学校体操教授要目」が制定され、それ以降、日本ではスウェーデン体操が主流となることとなりました。
オリンピック実現に向け奔走
その一方で、明治43年(1910)当時、東洋で初めてIOC(国際オリンピック委員会)の委員となった嘉納治五郎は、国際オリンピックからストックホルムオリンピックに参加するよう要請されます。
こうして嘉納治五郎は日本のオリンピック参加に向けて奔走することとなりますが、当時、日本ではまだスポーツの理解が乏しく、政府は日本オリンピック委員会の設置を拒否するなど、全く協力しようとしませんでした。
そこで嘉納治五郎は、大日本体育協会の設立と日本オリンピック委員会の設置すると、可児徳も永井道明とともに活動に参加し、嘉納治五郎の下でオリンピック実現に向け奔走しました。
オリンピックの出場
可児徳はオリンピックの実現に奔走する傍ら、可児徳は東京高等師範学校の徒歩部の部長に就任していました。
その徒歩部には長距離走者の金栗四三が入部しており、そんな長距離走者の金栗四三と短距離走者の三島弥彦が日本代表と選ばれることとなり、日本初参加であるストックホルムオリンピックに出場することができました。
可児徳は金栗四三を指導していたとされていますが、個人的なエピソードは残念ながら残されていません。
ドイツ留学
このようにオリンピック実現に向け奔走する一方で、ドイツ留学を夢見ていた可児徳は明治44年(1911)9月から明治45年(1912)11月までドイツ協会付属ドイツ専修学校高等科でドイツ語を学び、大正4年(1915)念願のドイツ留学を計画します。
しかしこの年、第一次世界大戦が勃発したため、ドイツではなくアメリカに渡り、アメリカで体育の研究を行いました。
その後、日本に帰国の際、日本政府に対し留学の延長と、ドイツ留学を希望します。
この可児徳の希望に対し、日本政府は許可を出し、ようやく可児徳はドイツ留学を行うことができると思われましたが、第一次世界大戦の影響でヨーロッパの状況が悪化しているという情報が文部省から届き、可児徳はドイツ留学をすることができず、大正6年(1917)11月、泣く泣く日本に帰国しました。
永井道明と対立
帰国後の大正7年(1918)可児徳は東京高等師範学校の教授に主任します。
しかし、永井道明が主導となり大正2年(1913)に制定された「学校体操教授要目」によって、学校の体育教育はスウェーデン体操が主体となっていたため、可児徳がアメリカで学んだ体育の知識は生かされることはありませんでした。
そのため、スウェーデン体操を推薦する永井道明と対立するようになると、可児徳のスポーツ派が派閥争いに勝利し、主導権を握った可児徳は永井道明を東京高等師範学校から排除します。
また後の大正15年(1926)には「学校体操教授要目」の改正が行われ、スウェーデン体操は排除される結果となります。
可児徳の最期
主導権を握った可児徳でしたが、大正10年(1921)9月に東京高等師範学校の教授を退官します。
しかし講師として東京高等師範学校に残りつづけました。
その2年後の大正12年(1923)国華高等女子学校を創設すると、東京高等師範学校の講師を辞職し理事長となり、女子体育の普及を行いました。
その後、体操学校の副校長や会長事務取締役などを行い、昭和41年(1966)9月8日に93歳で亡くなりました。
まとめ
可児徳はオリンピック実現に向け嘉納治五郎や永井道明と奔走した人物でした。
ストックホルムオリンピックに出場した金栗四三と三島弥彦は優秀な成績を収めることはできませんでしたが、その後、日本ではスポーツへの注目が集まる結果となりました。
2019年大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」では俳優の古館寛治さんが可児徳を演じられています。