オリンピックで日本のお家芸と言えば柔道を思い浮かべる人が一番多いのではないでしょうか。
IPPON(いっぽん)やMATE(待て)など、日本語がそのまま柔道用語となって使われているため、日本人として誇らしく思えるスポーツでもあります。
この柔道は明治時代に講道館を創設し、柔道の父と呼ばれた嘉納治五郎(かのうじごろう)によって世界中に普及し、現在、国際柔道連盟(IJF)に加盟している国と地域は200を越え、嘉納治五郎の誕生日はIJFにより国際柔道デーと定められています。
今回は柔道の父のみならず、日本体育の父、スポーツの父と言われた嘉納治五郎にスポットを当てて、名言や身長なども含めて解説していきます。
嘉納治五郎誕生、それは柔道誕生の日
1860年12月10日、摂津国御影村(現在の兵庫県神戸市東灘区御影町)で父・治郎作(じろさく)と母・定子(さだこ)の三男として誕生、産まれたときから虚弱体質であったと言われてます。
治五郎が生まれた嘉納家は御影では名の知れた名家で、酒造や廻船によって相当な富豪であり、父の治郎作は婿養子でした。
治郎作は廻船業で幕府御用達を勤め、兵庫港の和田岬砲台建設を請け負ったり勝海舟に相当な資金を提供していました。
治五郎は地元の育英義塾(現在の育英高校)から東京開成学校(現在の東京大学)に進学、この頃から虚弱体質の自分が強者に勝つには、「柔よく剛を制す」の考えから柔術を学ぶしかないと考えるようになり、柳生心眼流の大島一学(おおしまいちがく)に一時、弟子入りした後、天神真楊流柔術の福田八之助(ふくだはちのすけ)に正式に弟子入りします。
1879年(明治12年)7月、来日中のユリシーズ・グラント前アメリカ合衆国大統領の前で柔術を演舞するなど、学生ではありましたが柔術の腕前は相当に高かったようです。
柔術から柔道へ、講道館の設立
福田八之助亡きあとは天神真楊流家元・磯正智(いそまさとも)に学び、その奥義を極めます。
その間にも勉学をおろそかにすることはなく、1881年(明治14年)東京大学文学部哲学政治学理財学科を卒業、まさしく文武両道を地で行く青春時代を送ります。
磯正智(いそまさとも)が亡くなると今度は異なる柔術の流派、起倒流の飯久保恒年(いいくぼつねとし)に入門します。
治五郎は二つの異なる柔術の流派を修得することによって、乱取り(自由に技を掛け合う稽古方法)の技術を取捨選択し、技のかけ方や掛けるときの相手の崩し方などの形を確立して新たな「柔道」を形成したのでした。
そして1882年(明治15年)5月、下谷北稲荷町(現在の台東区東上野)にある永昌寺(えいしょうじ)の居間と書院を道場とし、囲碁や将棋を模倣して強さによって級や段を与える段位制を採用し、講道館を設立しました。
嘉納治五郎、弱冠22歳のことです。
教育者・嘉納治五郎
東京大学を卒業後、1882年から学習院の教頭に就任、1891年からは旧制第五高等学校(現在の熊本大学)の校長、1893年からは東京高等師範学校および付属中学校(現在の筑波大学、同付属高等学校、中学校)の校長を25年間勤めました。
出身地の神戸では私立の名門校・灘高等学校、同中学校の設立に尽力し、日本で始めての女子高等教育機関である日本女子大学の創立委員にも名前を連ねました。
中国からの留学生のために牛込に弘文学院を開いて生徒を受け入れ、この中から文学革命の指導者が多く輩出されました。
治五郎は日本の高等教育機関の設立、整備に心血を注ぐだけでなく、剣術、棒術、薙刀術を始めとする日本の古武道などを柔術を柔道のように改良したように、ルールを定めてスポーツとして近代化させ、教育の一貫としてそれらを普及させる努力も試みています。
講道館出身の弟子を多くの古武道の流派(大東流合気柔術、香取神道流など)へ入門させて修得させ、講道館で「古武道研究会」も開催しています。
もちろん柔道の普及も怠ることなく、創部間もない東京専門学校(現在の早稲田大学)柔道部にも指導に訪れていました。
嘉納治五郎のオリンピックにかける情熱
1909年(明治42年)、嘉納治五郎は東洋で初めてのIOC(国際オリンピック委員会)の委員となり、オリンピックへの出場で日本スポーツの国際化と日本国内での多種のスポーツを普及させようとします。
日本国内では1911年7月、大日本体育協会(日本体育協会、現在の日本スポーツ協会)を設立して初代会長に就任、翌1912年には初出場となるストックホルムオリンピックにマラソンの金栗四三(かなくりしそう)と陸上短距離の三島弥彦(みしまやひこ)の選手2名と団長の嘉納治五郎、コーチの大森兵蔵(おおもりひょうぞう)の合計4名で参加し、世界への第一歩を刻みました。
開会式で掲げる国名のプラカード表記について選手の金栗四三が「日本」、コーチの大森兵蔵が国際格式に従って「JAPAN」とすることを主張して対立、団長である嘉納治五郎は妥協案として「NIPPON」と表記することで二人を説得、このストックホルムオリンピック以外では全てプラカードの表記は「JAPAN」となっており、最初で最後の「NIPPON」表記となりました。
悲願の東京オリンピックを招致決定
1929年、日本学生競技連盟会長の山本忠興(やまもとただおき)と国際陸上競技連盟(IAAF)会長ジークフリード・エドストレームが会談、日本での五輪開催が可能との感触を得た山本はこの話を東京市の幹部に伝えます。
これを聞いた東京市や政府内では一気にオリンピック誘致の機運が高まり、1931年には東京市議会でオリンピック誘致の建議が満場一致で採択され、会場建設場所もすぐに決定されました。
ヨーロッパ各地の大使や公使に協力を依頼し、国内でも大学や各スポーツ統括機関、東京商工会議所などにも協力を要請し、国内世論の盛り上げをはかりました。
1932年のロサンゼルスIOC総会で開催都市に正式立候補、1935年の1940年のオリンピック開催都市を決定するオスロIOC総会ではヘルシンキ、ローマを破って開催都市に選出されます。
1936年オリンピック大会組織委員会が設立され、駒沢にメイン会場の建設が決定、開催日程などが公表されていく中で、戦争の影がオリンピック開催に影響を与えていきます。
アフリカで第二次エチオピア戦争が起こり、中国でも盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)をきっかけに日本軍と中華民国国軍との戦闘が激化し、国内でも軍部を中心にオリンピック開催権の返上を叫ぶ声が出始めます。
オリンピック開催への執念で燃え尽きた治五郎
一貫して東京オリンピックの開催を主張し、国内外での協力を求め続けた嘉納治五郎は、国内での返上圧力を跳ね返すために1938年エジプトのカイロで行われたIOC総会に出席し、日本の対中国政策に反対する国々の圧力をはねのけ、1940年の東京オリンピック開催をIOC総会で確認し、この決定を日本に持って帰ろうとします。
しかし、カイロから日本へ向けて帰国するために乗船した氷川丸のなかで肺炎にかかり、意識不明の重体となりそのまま息を引き取ります。
横浜到着の二日前、遺体は氷漬けにされて無言の帰国となりました。
東京オリンピック開催に反対する国内外からの圧力を一人ではねのけていた嘉納治五郎の死去によって開催賛成派は雪崩をうって崩壊し、政府は正式に東京オリンピック開催をIOCに返上しました。
柔道の父、嘉納治五郎遺訓
講道館のホームページを開くと最初に掲載されているのは嘉納治五郎師範遺訓です。
柔道は、心身の力を、最も有効に、
使用する道である。
その修行は、攻撃防禦の練習に由つて、身体精神を鍛錬修養し、斯道の神髄を体得する事である。
さうして、是に由つて、己を完成し、世を補益するが、柔道修行の究竟の目的である。
むやみに解釈を書いて、嘉納治五郎師範の考えを誤って伝えたくないので解釈は掲載しません。
ただ、柔道を学び習得するということは自分の肉体や精神を鍛えて世の中のためにの役立つことと教えているのは、やはり嘉納治五郎が教育者であった証拠でしょう。
中学校、高校の体育の授業で柔道が必須科目なのがわかる気がします。
日本スポーツの父、嘉納治五郎の名言
指導者、教育者として多くの功績を残した嘉納治五郎は弟子や学生、生徒に対して数多くの言葉を残しています。
その中からいくつかの言葉を紹介しておきます。
【意味】何事をするにも自身の心身の力を最大限に使って、社会に対して良い行いをすること。常に相手を敬い、感謝して信頼することで自分だけでなく、他の人ともとも幸せな社会を作ること。
2016年にドラマ化された「重版出来・じゅうはんしゅたい」の女子柔道でオリンピックを目指しながら怪我で柔道自体を断念して大手出版社に就職した主人公・黒沢心の座右の銘として有名になった言葉です。
すべての人がこの考えを持てば争いや対立はすぐに解消しそうです。
柔道という勝負事を教えていただけあって、精神論や勝負に挑む姿勢に関する言葉が多いようです。
それでは最後に嘉納治五郎が残したもっとも有名な言葉です。
【意味】柔らかなものは、硬く強いものをうまくかわして、結果的に勝利を得ること。転じて柔弱なものが、剛強なものに勝つこと。
嘉納治五郎のエピソード
東京大学に進学した頃の嘉納治五郎の身長は158㎝程度だったと言われています。
日本人の男子大学生の平均身長が170㎝程度で女子大学生の平均身長が158㎝程度ですから嘉納治五郎がかなりの小柄な体格であったことがわかります。
このため、同級生や先輩からいじめを受けたこともあったそうです。
身体が小さくても大きな相手を倒すことができる柔術の習得に傾倒していったのは、この事が大きな理由であったと言えます。
柔道家の一生を描いた富田常雄(とみたつねお)の小説「姿三四郎」では主人公の三四郎(講道館四天王の西郷四郎がモデルと言われています。)が入門する柔道場の道場主・矢野正五郎は嘉納治五郎をモデルにしていると言われています。
また女子柔道の人気に火をつけ、世界的なブームを巻き起こした、天才柔道少女・猪熊柔を主人公にした浦沢直樹(うらさわなおき)原作の漫画「YAWARA!」で主人公・柔を指導した祖父の名前が猪熊滋悟郎(いのくまじごろう)と言い、明らかに嘉納治五郎を意識した名前となっています。
柔道関連の作品に登場する指導者や伝説的柔道家は嘉納治五郎をモデルにしたものが多く、それだけ柔道=嘉納治五郎のイメージが日本国民に定着しているのでしょう。
世界に通用する日本スポーツ
1940年、政府による開催権返上により幻となった東京オリンピックは太平洋戦争敗戦後に急速に経済復興を果たした日本を象徴する大会として、1964年に93の国と地域が参加して夏期オリンピック大会として開催されました。
日本は金メダル16個を含む29個のメダルを獲得、日本柔道は金メダル3個、銀メダル1個と大活躍しました。
嘉納治五郎が失意のなかでこの世を去ってから26年、嘉納治五郎が目指した世界に通用する日本スポーツは、東京オリンピックを契機に国際社会に復帰、その後多くのスポーツが世界レベルでの選手を輩出、プロ野球は世界一に、サッカーはW杯ベスト16、ラグビーは南半球の強豪国を倒し、プロゴルフはアメリカツアーで優勝者を出し、テニスでは男女ともに世界ツアー優勝者を、もちろんオリンピックでは柔道、女子レスリング、男子体操、卓球などは世界トップの実力をもち、他の競技でも世界に通用する選手が続々と誕生しています。
1912年、たった二人の選手をつれてオリンピックに参戦した嘉納治五郎の努力が100年以上たった現在の世界を目指す日本スポーツを作ったと言っても過言ではないでしょう。
嘉納治五郎杯東京国際柔道大会(KANO CUP Judo World Grand Prix、現在のグランドスラム・東京)として世界的な大会にも名前を残していた嘉納治五郎の千葉県にある東京都立八柱霊園のお墓には、現在もオリンピック、世界選手権に出場する柔道代表選手が必ず大会前にお参りに来て必勝祈願をしています。