小泉八雲とは?生涯や怪談話、有名な作品や子孫について解説!

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小泉八雲とは明治時代に活躍した小説家です。

ギリシャで誕生した小泉八雲は新聞記者となり明治23年(1890)はじめて日本に来日しました。

来日後は新聞記者を辞め、英語教師となり翌年には日本人女性と結婚します。

その後、明治29年(1896)に日本国籍を取得し「小泉八雲」と名乗り始めました。

小泉八雲は日本各地に伝わる怪談話を研究すると、それらの怪談話を英語で記し『怪談』を出版しました。

そんな小泉八雲の生涯や作品『怪談』、有名な作品や子孫について解説していきます。

小泉八雲の生い立ち

小泉八雲は1850年6月27日、当時イギリスの保護領であったレフカダ島(後のギリシャ)で誕生しました。

父はアイルランド人でイギリス軍医であったチャールス・ブッシュ・ハーン、母はギリシャ人のローザ・カシマティであったとされています。

小泉八雲の出生名はパトリック・ラフカディオ・ハーンであったとされ、ラフカディオというミドルネームがつけられていました。

3人兄弟の次男であったラフカディオ(後の小泉八雲)は、1851年、母と女中とともにアイルランド島東部にあるダブリンへと移住します。

この移住は父が西インドに転属したためでした。

以降、ラフカディオ(後の小泉八雲)はダブリンで幼少時代を過ごすこととなります。

 

カトリック文化の中で育つ

こうしてラフカディオ(後の小泉八雲)と母、女中はダブリンで過ごすこととなりましたが、母は精神病を患い、ギリシャへと帰国します。

その後、1854年、母と父は離婚し、父は再婚したためラフカディオ(後の小泉八雲)は父方の大叔母サラ・ブレナンのもとに預けられ育てられることとなりました。

大叔母サラ・ブレナンはカトリック信者であったため、ラフカディオ(後の小泉八雲)は厳格なカトリック文化の中で育つこととなります。

 

大学を退学

その後、ラフカディオ(後の小泉八雲)はフランスの神学校に入学しましたが、帰国し1863年にダラム大学セント・カスバーツ・カレッジ(後のアショウ・カレッジ)に入学しました。

ダラム大学セント・カスバーツ・カレッジに在学中の1866年、父が西インドからの帰国途中に病死します。

同年、父母に代わってラフカディオ(後の小泉八雲)を育てていた大叔母サラ・ブレナンが破産します。

そのためラフカディオ(後の小泉八雲)は1967年にダラム大学セント・カスバーツ・カレッジを退学することとなりました。

ジャーナリストとなる

退学後の1869年、ラフカディオ(後の小泉八雲)はアメリカへと単身で渡ります。

アメリカへと移民したラフカディオ(後の小泉八雲)は、得意のフランス語を活かしシンシナティでジャーナリストとして文芸評論や事件報道などを記事にしました。

 

日本に来日

その後、ルイジアナ州ニューオーリンズ、カリブ海のマルティニーク島などに移り住んだラフカディオ(後の小泉八雲)は明治23年(1890)、アメリカ合衆国の出版社の通信員として日本に初めて来日します。

ラフカディオ(後の小泉八雲)は1884年、ルイジアナ州ニューオーリンズで開かれた万博において、農商務省官僚・服部一三から紹介された日本文化や、英訳された『古事記』に魅了され日本に行くことを決意したとされています。

 

英語教師となる

明治23年(1890)4月4日、ラフカディオ(後の小泉八雲)が日本に来日します。

日本に来日したラフカディオ(後の小泉八雲)でしたが、当時勤めていたタイムズ・デモクラット社とトラブルを起こし、契約を破棄しました。

同年7月になると、1884年に万博で出会った服部一三の斡旋で島根県尋常中学校(現在の島根県立松江北高等学校)、島根県尋常師範学校(現在の島根大学)の英語教師となりました。

 

結婚

翌年の明治24年(1891)になると、中学教頭・西田千太郎の紹介で松江に住む小泉湊の娘・小泉セツと結婚することとなります。

 

嘉納治五郎との出会い

11月になると、熊本県熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身校)の英語教師に任命されました。

当時、この高等学校の校長を務めていたのは嘉納治五郎です。

嘉納治五郎は柔道の父と呼ばれるほどの腕前を持ち、後の明治44年(1911)大日本体育協会(現日本体育協会)を設立し、大正元年(1912)には日本初参加となるストックホルムオリンピックにおいて団長を務めることとなる人物です。

この嘉納治五郎の持つ柔道論を称賛したラフカディオ(後の小泉八雲)は後の1895年『東の国から・心』において嘉納治五郎の柔道論について記しました。

 

日本に帰化し「小泉八雲」を名乗り始める

明治27年(1894)ラフカディオ(後の小泉八雲)は神戸市にあるジャパンクロニクル社に就職します。

これに伴い、神戸へと転移しました。

その2年後の明治29年(1896)には東京帝国大学文科大学の英文学講師となります。

また同時期に日本に帰化し「小泉八雲」と名乗り始めました。

しかし、明治36年(1896)になると東京帝国大学を解雇されることとなります。

小泉八雲の後任となったのは夏目漱石でした。

 

小泉八雲の最期

翌年の3月になると小泉八雲は早稲田大学の講師を務めることとなります。

しかし、同年9月、小泉八雲は狭心症によって54歳で亡くなりました。

小泉八雲の有名な作品

小泉八雲はジャーナリスト、英語教師と多くの職業を持ちます。

その中でも著作家として様々な作品を残しました。

小泉八雲の有名な作品をご紹介いたします。

 

『知られぬ日本の面影』

明治27年(1894)に出版された『知られぬ日本の面影』は小泉八雲が日本に来日して初となる作品です。

小泉八雲が住んでいた出雲地方と松江で経験したエピソードが記されています。

 

『骨董』

明治35年(1902)に出版された『骨董』は日本各地に伝わる伝説や古い怪談などが記されています。

 

『怪談』

小泉八雲は明治37年(1904)、怪奇文学作品集『怪談』を出版しました。

この『怪談』は小泉八雲が日本に来日後に結婚した小泉セツから聞いた全国各地の怪談話を独自の解釈を付け加えまとめた怪奇文学作品集です。

 

子孫

小泉八雲は来日前の1875年、マティ・フォリーという女性と結婚しています。

しかし1877年には離婚しました。

その後、日本に来日すると明治24年(1891)小泉セツと結婚しました。

2人は三男一女の子供に恵まれ現在も、小泉八雲の子孫は続いているとされています。

 

長男・小泉一雄

 

次男・小泉巌

 

三男・小泉清

画家であったとされ、1962年にガス自殺によって亡くなっています。

 

長女・寿々子

 

まとめ

ギリシャ出身の小泉八雲は日本に来日後、第五高等学校(熊本大学の前身校)の英語教師となりました。

その際、校長であった嘉納治五郎の持つ柔道論に感銘を受けたとされています。

来日後は日本各地に伝わる伝説や怪談話をまとめた『骨頂』や『怪談』を出版しました。