源義経について!伝説やチンギスハン説、弁慶との関係や妻・子孫について解説!

※当サイトは広告を含む場合がございます

源義経は平安末期の武将で源頼朝の異母弟にあたる人物です。

優れた軍才を持っていた源義経は弁慶との衣川の戦いが「義経記」を通して伝説として語り継がれてきました。

そんな源義経の生涯、妻や子孫、また弁慶との伝説と義経は実はチンギスハンだったのでは。とされるチンギスハン説を解説していきます。

源義経の生い立ち

源義経は源義朝の九男として平治元年(1159)に生まれたとされ幼少期は牛若丸と呼ばれます。

同年、父・源義朝は平治の乱で謀反人とされ亡くなると牛若丸は母・常盤御前、兄・今若、乙若と共に大和国へとの逃れた後、兄2人は出家し僧侶、母・常盤は牛若丸をつれ公家の一条長成と再婚しました。

母の再婚によって京都にいた牛若丸は11歳の頃、鞍馬寺に預けられ、遮那王と名乗ります。

 

元服

やがて僧になることを拒んだ遮那王は鞍馬寺を出て、承安4年(1174)に元服をしました。

この頃から義経と名乗るようになり、元服した後、義経は奥州藤原氏宗主である藤原秀衡を頼って平泉に向かったとされています。

 

兄・源頼朝が鎌倉を拠点に置く

治承4年(1180)兄・源頼朝が平氏打倒のため伊豆で挙兵すると源義経もその幕下に入ろうと藤原秀衡から差し出された数十騎を連れて兄のもとへと向かいます。

この頃、兄・源頼朝は富士川の戦いで勝利し、源義経と義経の異母兄である源範頼に指揮を任せ、本拠地である鎌倉で東国の運営に力を注いでいました。

 

木曽義仲との対立

寿永2年(1183)木曽義仲が平氏を追い込み京へと入りました。

後白河上皇は源頼朝に上洛の要請を行いますが、それに対し危機感を抱いた木曽義仲は源頼朝の討伐を決意します

源頼朝は木曽義仲との対立のために京都へと向かいますが、京都では深刻な食糧不足が起きていたため、源義経と中原親能を代わりに京都へと向かわせました。

 

粟津の戦い

京都へ向かった源義経と中原親能でしたが、入京が困難な状況でした。

そんな状況の中、法住寺合戦によって木曽義仲が後白河上皇を幽閉したとの情報が伝えられます。

この情報を耳にした源義経はすぐに兵力の増強を図り援軍を率いて、宇治川の戦いで志田義広を破り、敗走した木曽義仲は粟津の戦いで討死となりました。

 

平氏討伐

木曽義仲との戦いの間も、平氏は西国で勢力を再び伸ばし、京都にほど近い福原までその勢力を伸ばしていました。

そんな平氏の打倒に兄・源頼朝は源義経に平氏の討伐を命じます。

源義経は三草山の戦いで平資盛を破り、一ノ谷の戦いでたった70ほどの兵力で平氏本陣を奇襲しました。

これらの戦いによって平氏に混乱を招き、源軍の勝利となります。

源義経は木曽義仲の討伐や、一ノ谷の戦いでその名を、全国に広めることとなりました。

その後、源義経は都での治安監視のため鎌倉には戻らず京都に残り、元暦元年(1184)9月には河越重頼の娘・郷御前を正室として迎えます。

平氏滅亡

元暦2年(1185)2月の屋島の戦いでは、平氏の拠点であった屋島を奇襲し平氏を敗走へと追い込み、同年3月に起こった壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させました。

 

兄・源頼朝との対立

平氏を滅亡に追い込んだ源義経でしたが、その後、兄・源頼朝に弟・源義経が手柄を独り占めしようと企んでいる。といった書状が届き対立関係となります。

源義経は、壇ノ浦の戦いで捕らえた平宗盛、清宗父子を護送した後、鎌倉に戻ろうとしましたが、兄・源頼朝によって鎌倉入りが認められず、平宗盛、清宗父子のみが鎌倉に入ることができました。

兄・源頼朝と対立関係となった原因として、源義経が平氏討伐の際、兄・源頼朝に代わって使わされていた梶原景時の意見を無視したこと、兄・源頼朝に従っている東国武士達を勝手に成敗したことなどがあげられていますが、他にも平氏討伐で源義経が大いに活躍したため、兄・源頼朝に従っている東国武士達の活躍の場が無くなり、不満が噴出したことが原因としてあげられています。

平氏討伐で法皇や武士達からの信頼を得た源義経は武家政権の確立を目標に掲げていた兄・源頼朝にとって、脅威となる存在でした。

 

源義経の討伐

その後、兄・源頼朝は源義経の所領を没収した後、叔父・源行家に源義経の討伐を命じました。

元暦2年(1185)10月に、兄・源頼朝の家人・土佐坊昌俊が源義経の屋敷を襲うも、叔父・源行家が源義経に応戦したため、土佐坊昌俊は敗北となります。

源義経はこの襲撃が兄・源頼朝によって命じられたことであったのを知ると、兄・源頼朝の討伐を決意しました。

兄・源頼朝が迫ってきたことを知ると、源義経は西国での軍の立て直しを図ろうと、九州へと向かいます。

しかし、途中で暴風雨によって船は難破し、摂津国へと押し流されてしまいました。

その後、愛妾の静御前らを連れて吉野で潜伏しますが、ここでも兄・源頼朝の討伐軍に攻められ、静御前は捕らえられます。

討伐軍から逃げたのち京都での潜伏となるも次々と源義経周辺の関係者が兄・源頼朝の命で殺害され、京都での潜伏に限界を感じた源義経は正妻と子を連れて藤原秀衡を頼りに奥州へと向かいました。

 

源義経の最期

藤原秀衡を頼って平泉に身を置いた源義経でしたが、文治3年(1187)10月に藤原秀衡が亡くなると、藤原秀衡の嫡男・藤原泰衡が奥州藤原氏の当主となりました。

そんな新たな奥州藤原氏の当主・藤原泰衡に兄・源頼朝は源義経の捕縛を朝廷を通して強く命じます。

朝廷からの源義経の捕縛命令は数回あったようで、藤原泰衡は文治4年(1188)4月に衣川の戦いで、源義経を襲撃しました。

この戦いで、源義経の郎党達が防戦するも源義経は一切戦わず、正室・郷御前と4歳であった娘を殺害して、自害し、31歳でその生涯を閉じました。

源義経の伝説

優れた軍才の持ち主であった源義経は死後多くの伝説が語られるようになりました。

そのうちの1つとして京都の五条大橋で武蔵坊弁慶と出会った伝説は最も有名な源義経の伝説の1つです。

 

武蔵坊弁慶との伝説

武蔵坊弁慶は紀伊国出身の僧衆であったとされている人物です。

勉学に励まず乱暴者であった弁慶は京都で1000本の太刀を奪うことを企て、次々と道行く人から刀を奪います。

とうとう999本の刀を奪ったところで、五条大橋で笛を吹き歩いていた源義経と出会い、弁慶はあと1本の刀を奪うため源義経に襲い掛かりましたが、源義経には敵わず、返り討ちににあいます。

それに驚いた弁慶は降参し、源義経の家臣として従ったという伝説が残されました。

その後、弁慶は源義経が奥州へ向かった際も同行し、衣川の戦いの際は源義経を守るため敵の矢を受けながら立ったまま絶命した弁慶の最期が語り継がれています。

 

チンギスハン説について

源義経は衣川の戦いで自害したとされていますが、実は生存しており奥州から蝦夷地に逃げたのでは。という不死伝説があります。

この伝説の延長として、蝦夷地に逃げた源義経が大陸に渡りチンギスハンになったとされるチンギスハン説が誕生しました。

このチンギスハン説は幕末以降に誕生したとされ、この説は明治、大正まで続き、大正時代に小谷部全一郎が源義経のチンギスハン説を調査したところ、源義経がチンギスハンだということを確信し「成吉思汗ハ源義經也」を出版します。

明治になると、源義経のチンギスハン説は否定されるようになり、現代では、チンギスハンの生年や父親の名前が判明していることから、源義経はチンギスハンであるというチンギスハン説は完全に否定されたものとなりました。

 

源義経の子孫

源義経は妻に、河越重頼の娘・郷御前を迎え、その他にも愛妾として静御前、平時忠の娘・蕨姫を迎えました。

 

正室・郷御前都の子供

源義経の子供には妻・郷御前との間に女児と男児が誕生しましたが、女児については衣川の戦いで妻・郷御前と共に命を落としました。

男児については、源義経が奥州へと向かった際も妻・郷御前と女児と共に連れられたと記録されていますが、衣川の戦いでは妻と女児のみが亡くなったとされているため、男児の存在については未だ不明とされています。

 

愛妾・静御前との子供

静御前との間に、男児が誕生したとされていますが、生まれて間もなく源頼朝の命令によって殺害されたとされています。

 

源有綱と妻となった娘

この他にも、源有綱の正室となった娘が、源義経の娘であると推測されていますが、はっきりとはわかっていません。

このようなことから、源義経の現代に続く子孫は存在していないとされています。

 

最後に

源義経は、平氏討伐で活躍するも兄・源頼朝によって討伐対象となり奥州で自害となりましたが、その生涯や源義経の軍才から多くの伝説が語り継がれ、最終的には史実とはかけはなれた源義経像となりました。

チンギスハン説が人々に広まった理由として、江戸時代にかけての蝦夷地に対する関心、領土の拡大や大陸進出を行っていた当時の日本社会の風潮などがあげられます。