三島中洲とは?生い立ちや経歴、山田方谷との関係性や子孫について解説!

※当サイトは広告を含む場合がございます

三島中洲とは江戸時代末期から大正時代の漢学者として活躍し東京高等師範学校教授、新治裁判所長、大審院判事、東京帝国大学教授、東宮御用掛となった人物です。

山田方谷の門人となった三島中洲は松山藩の幕政改革を経験し、その経験から本当の君主は利益を軽んじるのではなく、義に沿った利益の使い方ができなければならない。といった考えを持つようになります。

この考えに渋沢栄一は興味を持つようになり、三島中洲と渋沢栄一は意気投合するようになりました。

そんな三島中洲の生い立ちや経歴、山田方谷との関係性や子孫について解説します。

三島中洲の生い立ち

三島中洲は文政13年(1830年)12月9日、現在の岡山県倉敷市中島で父・三島正昱の次男として誕生しました。

中洲という名前は号で、本名は毅です。

 

山田方谷の門人となる

天保8年(1837年)2月、三島中洲が8歳の時、父・三島正昱が江戸で亡くなります。

この頃、三島中洲は寺子屋で習字を習い、11、2歳の頃には儒学者である丸川松隠の養子・達龍から四書五経の素読を受けていました。

天保14年(1843年)8月、14歳になると三島中洲は備中松山藩の儒者・山田方谷が開いていた私塾・牛麓舎に入ります。

そこで学んだ三島中洲は19歳になると塾長となりました。

 

山田方谷とは

山田方谷とは文化2年(1805年)2月21日に誕生し、その後、儒学者である丸川松隠に学び備中松山藩の儒者となった人物です。

山田方谷は経済論である「理財論」、政治論「擬対策」を用いて松山藩の藩政改革を成功させました。

備中松山藩の吟味役となる

その後、備中松山藩の職務全ての監査を行う吟味役となります。

この頃から貞一郎と名乗るようになりました。

 

斎藤拙堂に師事

嘉永5年(1852年)3月、三島中洲が23歳の頃、伊勢津藩の朱子学者・斎藤拙堂に師事します。

斎藤拙堂は藩校・有造館の校長となった後、藩士に洋学や西洋兵術を学ばせるなどを行っていました。

伊勢藩は蔵書が多い事で知られており、三島中洲はここで多くの本を読んでいたとされています。

典籍係の川北梅山が三島中洲が本を返却するたび、「もう読んだのか。」と驚いていたというエピソードが残されています。

 

ペリー来航に際し

翌年、米国からマシュー・ペリーが日本に来航した際には、探索に出掛け『探辺日録』を作成しました。

安政3年(1856年)3月になると伊勢を発ち、翌年、備中松山藩藩士となりました。

 

江戸へ

安政5年(1858年)4月、三島中洲が28歳の頃、備中松山藩の藩主から許しを得て江戸へと旅立ちます。

江戸に出た三島中洲は江戸幕府直轄の教学機関である昌平坂学問所に入り、そこで儒学者・佐藤一斎、朱子学者・安積艮斎から学びました。

翌年、帰郷すると松山藩の藩校・有終館の会頭に就任します。

文久元年(1861年)4月、32歳になると有終館学頭・吟味役となり有終館学制改革を行いました。

漢学塾・虎口渓舎を開く

同年6月になると、漢学塾・虎口渓舎を開きました。

60人から70人以上の生徒がいたとされています。

 

大政奉還

慶応元年(1865年)明治政府の命で上京し、慶應3年(1867年)9月、奉行格となり洋学総裁兼務となります。

翌月の10月14日には、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が朝廷に政権を返上しました。(大政奉還)

 

経国文社を興す

明治10年(1877年)9月、三島中洲は中村敬宇(教育者・啓蒙思想家)、重野安繹(漢学者・歴史家)、川田甕江(漢学者)、鷲津毅堂(儒者)、阪谷朗廬(漢学者・儒者)、川北梅山、南摩綱紀(教育者)らとともに邸内に経国文社を興します。

曹丕『典論』の「文章経国之大業、不朽之盛事」から経国文社と名付けられました。

 

二松學舍を設立

明治10年(1877年)10月には東京府麹町区に漢学塾・二松學舍を設立し、翌月には分校となる柳塾を設立します。

明治11年(1878年)1月になると東京師範学校の漢学教授に就任しました。

 

第八十六国立銀行を設立

明治12年(1879年)三島中洲は板倉勝静、板倉勝弼、川田甕江らとともにて第八十六国立銀行(現在の株式会社中国銀行)を設立します。

明治維新後、朝廷の敵と見なされていた松山藩は減封され士族は困窮に陥っていました。

これを救済するため、板倉家の財産と藩士の金禄公債証書を資本に第八十六国立銀行を設立したとされています。

渋沢栄一との関わり

その後は明治14年(1881年)に東京大学教授に就任します。(明治19年まで)

三島中洲は備中松山藩の藩士であった時、幕政改革を行っていました。

この時の経験から、三島中洲は本当の君主は利益を軽んじるのではなく、義に沿った利益の使い方ができなければならない。といった考えを持つようになりました。

この考えは明治19年(1886年)「義利合一論」と題して東京学士会及び哲学会で講演され、これを聞いた渋沢栄一と三島中洲は意気投合することとなります。

 

國學院の教授に就任

明治24年(1891年)になると現在の早稲田大学である東京専門学校の講師となり、翌年の明治25年(1892年)9月には國學院に招かれ國學院の教授に就任しました。

 

東宮御用掛に就任

明治29年(1896年)3月、東宮に対し専門的知識を進講する東宮御用掛に就任し、その後同年6月に東宮侍講となります。

明治32年(1899年)1月には天皇皇后に進講しました。

大正4年(1915年)になると、東宮御用掛のまま宮内大臣の諮問に応じる職である宮中顧問官に就任します。

 

スペイン風邪で亡くなる

その4年後の大正8年(1919年)5月12日、当時流行していたスペイン風邪を患い90歳で亡くなりました。

 

子孫

三島中洲には長男・三島桂がいます。

実業家である三島桂は明治30年(1897年)1月から6月までの間、第八十六国立銀行の取締役に就任しました。

三男の三島雷堂は教育者となり、東京帝国大学文科を卒業後、二松学舎の教師となりました。

また三島桂の長男・三島一(三島中洲の孫)は東洋史学者となり、東京帝国大学東洋史学科を卒業後、二松学舎や専修大学などの教師となりました。

 

まとめ

三島中洲は江戸時代末期から大正時代の漢学者として活躍し東京高等師範学校教授、新治裁判所長、大審院判事、東京帝国大学教授、東宮御用掛に就任した人物でした。

山田方谷から学びを得た三島中洲は本当の君主は利益を軽んじるのではなく、義に沿った利益の使い方ができなければならない。といった思想を持ち、この考えに渋沢栄一も興味を持ったとされています。

2021年に放送予定の大河ドラマ「青天を衝け」は実業家・渋沢栄一が主人公となったドラマです。

この大河ドラマに三島中洲が登場することが予想されています。