三島弥彦は2019年の大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」では主人公・金栗四三の親友で、日本で初めてオリンピックに行った二人の陸上選手のうちの一人です。
金栗四三との関係、オリンピックでの記録と逸話を紹介します。
三島弥彦とは?
1886年東京生まれ。元薩摩藩士というエリート一家に生まれ、しかも170センチという当時で言えば長身でスポーツ万能でした。
それだけでなく、頭脳明晰で学習院で学んだあと、東京帝国大学(法科)へ進学します。
帝国大学在学中の26歳の時に、日本初のオリンピック代表選手となり、1912年のストックホルムオリンピックに参加しました。
結果、成績は振るいませんでしたが、日本人選手が世界へ進出するきっかけを作ったと言われています。
引退後は銀行員となり、横浜正金銀行ニューヨーク支店支配人をつとめました。
オリンピック出場の経緯
もともとスポーツ万能だった三島
三島は170センチという恵まれた体格もあって、何をやってもある程度の成績を収めるほどのスポーツ万能選手でした。
例えば、学習院時代には野球部でエース兼主将、ボート部でもレギュラー選手として鳴らしました。
そして東大時代にはスキー術・柔道・乗馬・相撲にも取り組みますが、もちろんすべてすばらしい腕前。さらにスケートも大会に出場する程の実力でした。
当時すでに有名人だったようで、おおらかな性格もあってか雑誌の読者投票でランク入りするほどの人気者だったそうです。
オリンピック予選会に飛び入り参加
そんなスポーツ万能有名人の三島は、1911年のオリンピック予選会に参加を要請されますが、これには応えず友達と観戦に行くことにしました。
しかしスポーツ好きの三島は競技を観ているうちに我慢できなくなり、予選会に飛び入りで参加します。
その結果、出場選手を差し置いて新記録を出し、優勝してしまいました。
金栗四三との関係
一年間の特訓
オリンピックの予選は陸上以外の競技でも行われましたが、オリンピックへ行くことができるのは、渡航費の関係で二人だけと決まっていました。
そして、短距離走の三島と長距離走の金栗四三が選ばれます。
オリンピックに出場が決まると、金栗と一緒にアメリカ大使館員から陸上競技について指導を受けました。
なにしろ陸上競技の知識がなく、スタートの仕方さえわからなかったのです。金栗に至っては、予選会が初めてのマラソンでした。
特訓の甲斐もあって、400mは予選会の59秒30が50秒台にまで縮まりました。
金栗四三とは親友であり戦友?
当時、スウェーデンへ行くには飛行機もないので、船でウラジオストクに渡った後、鉄道でストックホルムへ向かいました。
食事は、おかずには日本で買い込んだ缶詰を食べ、主食は駅で調達したパンだったそうです。
長い道中、ほとんど列車の中で過ごすことになり、駅に停車した時だけ列車を降りて周辺を走るなど練習をすることができました。
到着までに1か月以上かかり、その間ずっと一緒だったので、戦友のような関係だったのではないでしょうか。
オリンピックでの記録
まさかの予選敗退
日本ではぶっちぎりの三島でしたが、世界で戦うにはまだまだ実力が足りませんでした。
ほかの選手とは走り方が全く違っていて、スタートダッシュから出遅れ、ごぼう抜きにぬかれて100m、200mで予選敗退してしまいます。
日本人は陸上競技自体になじみがなく、かけっこの領域を出ていなかったため、最初はゆっくり走って最後で追い抜くという戦略を立てていました。
しかし、ほかの選手は全く逆でスタートからスピードを出していたので追いつくことができなかったのです。
足を痛めて棄権
400mでは優勝候補の選手が他の選手に記録を譲ろうと棄権したため、準優勝で予選を通過します。しかし足を痛めて棄権し、そのまま帰国しました。
この時の棄権を実は心身の疲労困憊のためだったとする説と戦意喪失のためとする説があります。
三島は四年後のベルリンオリンピックでのリベンジを狙っていましたが、第一次世界大戦のため中止となります。
選手としてのピークを逃すことになった三島は、そのまま引退し、陸上の表舞台から姿を消しました。
オリンピック参加にまつわる逸話
出場すること自体に悩んでいた
現代と違い、当時はスポーツは遊びととらえられ、オリンピック自体も今でこそ国を挙げてのイベントですが、知名度が低く、スポーツショー(見世物)だと思われていました。
真面目な三島は、卒業試験の時期と重なっていたこともあり、エリート階級の帝大生なのに「かけっこ」なんかで海外へ行ってもいいのかと悩んでいたそうです。
しかし結局周りの人々に説得されて参加を決意します。
ニッポンのプラカードで入場
イギリスにつけられたJAPANという国名では嫌だと、金栗と相談してNIPPONというプラカードで入場しました。
このNIPPON表記での出場はその時一回きりで、以後はJAPAN表記となりました。