生麦事件とは?場所やリチャードソンなどの詳細をわかりやすく解説!

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生麦事件とは、イギリス人のリチャードソンが島津光久の大名行列を乱して斬り捨てられた事件で、薩英戦争の引き金となっています。

では、一体何故その生麦事件は起きたのでしょうか。起きた経緯や起きた場所、そして事件が起きた時の状況、また斬り捨てられたされたリチャードソンについてわかりやすく解説していきます。

生麦事件が起こった場所

景色の良かった東海道沿いの生麦村と呼ばれる場所は、現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦に当たります。

この方面にあった東海道沿いはとても景色が良く、この景色を楽しみながら近くにある名所の川崎大師を観光するというのが、外国人たちに人気のコースでした。

この地を往来する外国人たちは、当時、生麦にあったお茶屋さんに立ち寄り、ビールを飲みながら沖に浮かぶ船を眺め、その後、川崎大師に向かっていたようです。

事件が起こった生麦村は、景観に優れた、外国人に人気のスポットだったんですね。

 

生麦事件が起こった経緯

まず当時の時代背景ですが、幕府はペリーの黒船来航を皮切りにアメリカと日米修好通商条約を結び、続いてオランダ・イギリス・フランス・ロシアとも同様の条約を結んで次々と港を開港し、外国と盛んに交流していました。また、開港により多くの外国人が移り住むようになり、横浜には外国人居留地が作られました。

それでも国内はまだまだ尊王攘夷思想を持つ者も多く、治安は不安定でした。その為、幕府は周辺に番所や関門を設けて警備体制を整え、また「遊歩限度」という制度もつくり、外国人は多摩川を渡って江戸へ入れないように規制をかけていました。

そんな中、1862年(文久2年)8月21日、生麦事件が起こりました。

 

事件が起こった時の状況

1862年9月14日の午後2時過ぎ、薩摩藩約400名に及ぶ大名行列が武蔵国橘樹郡生麦村を通りました。この時の大名は当時の薩摩の最高権力者だった島津久光です。

その時、前方から騎馬に乗った外国人4人と遭遇します。彼らは騎馬から降りて脇にによることなくどんどんと行列の中へと馬を進めてきてしまいます。

この当時、外国人は珍しい存在ではなく、外国人にも日本の大名行列のことは知らされていて最低限マナーがあったようです。実際、殺害されるイギリス人の前に行列はアメリカ人と遭遇していましたが、アメリカ人は馬を降りて敬意を示しました。

現代の私たちでも時代劇などで大名行列が通る時には一般庶民は脇に平伏して通り過ぎるのを待つというイメージがあります。しかし、実際は脇に土下座して平伏すのは御三家の行列だけで皆が皆、行列に平伏すわけではありません。普通に大名行列に遭遇したら道の両脇に寄り敬意を持って道を譲るのが常識でした。

ただし、列を乱すような場合に「無礼打ち」が許されていました。

このイギリス商人4人は止まることなく行列の中へと馬で割って入ってきたのですから相当な無礼です。見かねた藩士が刀を抜いてしまいます。さすがにまずいと思って引き返そうとするのですがかえって行列を乱してしまったのです。

結果として、イギリス人商人のチャールズリチャードソンは激怒した薩摩藩士から斬り捨てられてしまいました。

リチャードソンの遺体を残して藩士が去った後、近くの茶屋のかみさんが哀れに思い葦簀(よしず)をかけたと言われています。

イギリス人商人4人の中にボルディルという1人の女性がいましたが、藩士たちは女を切ることはためらい、ボルディルは必死に馬に乗り、当時のアメリカ領事館の神奈川県本覚寺まで逃げ込みました。また残り2名のマーシャルとクラークという男も肩や腕を負傷しましたが、一命は取りとめています。

この悲惨な生麦事件は、イギリスと日本の間に大きな波紋投げかけることになります。

生麦事件が薩英戦争に発展!

この事件後、イギリスは幕府と薩摩に謝罪と賠償金を要求しており、幕府は10万ポンドを支払っています。10万ポンドは、現在に置き換えると150億円程になるそうです。

しかしながら薩摩はこれらの要求を受け入れませんでした。この為、イギリスは横浜から7隻の軍艦で鹿児島へ向かい、1863年に薩英戦争が起きました。わかりやすくというと、当時の大英帝国と薩摩藩という一介の藩が戦争したわけですね。

当たり前ではありますが、この戦いで薩摩藩はイギリスとの間にあまりにも武力差があることを痛感し、攘夷、鎖国の無意味さを痛感しました。

また、長州藩もイギリス、フランス、オランダ、アメリカなどの欧米列強と戦うことで、文明の格差、無力さを痛感し、それが長州と薩摩の間で薩長同盟を結び、倒幕へ向かうことに繋がります。

 

リチャードソンについて

生麦事件により命を落としたリチャードソンですが、このリチャードソンが英国の父に宛てた手紙があります。その内容を以下に一部引用します。

日本はイングランド以外の場所でわたしが訪れた最高の国です。山や海の景色は抜群です。上海から馬を連れてきましたので、人の頼らずに比較的自由に動けますし、実際、多くの場所を訪れました。幸運にも江戸に行くことも出来ました。江戸という都市の素晴らしさは驚きです。ちょうどロンドンのリージェントストリートほどの道幅の通りが集まっています。

日本を称賛する手紙を残していますね。

当時、開国して各国から大勢の外国人が来日していた為に大名行列が通ることは事前通達されていたそうですが、手違いからかリチャードソン一行は知らなかったと言います。

このように日本を褒めてくれていた英国青年を殺傷しなければならなかった生麦事件は、悲劇という他ありません。享年28歳でした。