大倉喜八郎とは明治、大正期に活躍した日本の実業家です。
幼い頃から家業の質屋を手伝いながら漢籍などを学んでいました。
鰹節店、鉄砲店などの見習いを経て、鉄砲商店を開業するとそののち官軍御用達となり、台湾出兵、西南戦争、日露戦争などで御用達商人として活躍しました。
その後は実業家として貿易、建設、化学、製造などの企業設立に携わります。
他にも渋沢栄一らとともに鹿鳴館、帝国ホテルなどを設立しました。
そんな大倉喜八郎が帝国ホテルを設立した経緯、南アルプス登山、子孫や名言について解説いたします。
大倉喜八郎の生い立ち
新潟県で誕生
江戸時代後期の天保8年(1837年)9月24日、現在の新潟県新発田市で父・千之助、母・千勢子の三男として大倉喜八郎は誕生しました。
幼名は鶴吉といい、23歳の時に喜八郎と名を改めます。
この名前は祖父・喜八郎から取ったものでした。
代々商売家業が始まる
大倉家はもともと喜八郎の高祖父(曾々おじいさん)の代から新発田の聖籠山麓で農村業を営んでいました。
しかし、曽おじいさんにあたる曽祖父の宇一郎はその田地を兄に返し、商売を始めます。
祖父・卯一郎の時にも商売は続けられ、薬種・砂糖・錦・塩などを販売したところ、大きな利益を得ることとなりました。
祖父・卯一郎の代から藩主への拝謁を許されていたとされています。
天保の大飢饉
江戸時代後期の天保4年(1833年)大雨による洪水や冷害で農産物は大凶作にあいます。
陸奥国と出羽国(東北地方)の被害が最も大きかったとされていますが、新潟も大変な被害となりました。
農産物の大凶作は貧困の百姓を多く生むこととなり、貧困により餓死する百姓も多くいました。
この飢饉は天保の大飢饉と呼ばれ、江戸四大飢饉(寛永の大飢饉・享保の大飢饉・天明の大飢饉)の1つとされています。
喜八郎の父・千之助は天保の大飢饉に際し、被害を受けた百姓のために米蔵を開くなどして百姓たちを救いました。
この経緯から藩主から治安維持を行う検断役を命じられるようになります。
私塾・積善堂で漢籍を学び始める
喜八郎は家業を手伝いながら、四書五経を8歳のころから学び始め、12歳からは丹羽伯弘の私塾・積善堂で漢籍、習字を学び始めます。
この頃から、中国の王陽明がおこした儒教の一派・陽明学を知り、そのうちの「知行合一」から影響を受けるようになったとされています。
「知行合一」とは
「知行合一」とは陽明学の命題の1つです。
知ることと行動することは一体であり、分離することはできない。という意味です。
知りながら行動に移さないことは未だ知らないことと同じで、物事を知っている以上は必ず行動に表れると王陽明は主張しました。
江戸へ
嘉永4年(1851年)積善堂で一緒に学んでいた白勢三之助の父が侍と遭遇した際、下駄を履いたまま土下座をしたことを咎められます。
この行動から酒屋の営業差止めを迫られることとなりました。
喜八郎は営業差し止めに大変憤慨し、江戸にでることを決意します。
江戸に出た喜八郎は同年中に現在の日本橋堀留町の狂歌の師・檜園梅明のもとで暮らすこととなりました。
鰹節店の見習いに
狂歌仲間の和風亭国吉のもとで塩物商いの手伝いを行った喜八郎は、その後、中川鰹節店の見習いとなります。
この頃から、後に実業家として活躍する安田善次郎と交流を始めたとされています。
鉄砲店を開業
安政4年(1857年)奉公中に貯めた資金で独立し、乾物店大倉屋を開業します。
しかし、横浜で異国の黒船を見たことを機に慶応2年(1866年)、乾物店大倉屋を廃業し同年10月に小泉屋鉄砲店に見習いとなりました。
約4か月間、鉄砲商いの見習いを経験した喜八郎は、慶応3年(1867年)に独立し、鉄砲店大倉屋を開業しました。
官軍御用達となる
神田和泉橋通りに鉄砲店大倉屋を開業した喜八郎は、この鉄砲店を「和泉橋通藤堂門前自身番向大倉屋」と名付けます。
この際、もともと喜八郎が見習いとして出入りしていた小泉屋鉄砲店の屋敷先とは一切の商売をしないと証文を出しました。
開業したものの、店頭に商品を置くための資金が無かったため、喜八郎は注文を受け横浜居留地で商品を仕入れていました。
当時、不良銃を高値で販売する鉄砲店が多くありましたが、喜八郎は良品を安く、また素早く得意先に納品することを心がけていたため、和泉橋通藤堂門前自身番向大倉屋は非常に厚い信頼を得ていたとされています。
その信頼から官軍御用達となり、明治元年(1868年)明治新政府軍の兵器糧食の用達を命じられるようになりました。
様々な戦いで活躍
明治元年(1868年)になると喜八郎は皇族で軍人の有栖川宮熾仁親王御用達となります。
戊辰戦争の際には奥州討伐軍の武器、弾薬などの軍需品の用意にあたりました。
以降、喜八郎は明治7年(1874年)、明治政府が行った台湾への出兵である台湾出兵では征討都督府陸軍用達、明治10年(1877年)におきた西南戦争(明治政府と西郷隆盛を盟主とした旧薩摩藩士族の戦い)では征討軍御用達、明治27年(1894年)の日清戦争(大日本帝国と清の戦い)では陸軍御用達として活躍します。
明治37年(1904年)から始まった日露戦争(大日本帝国とロシア帝国の戦い)でも軍用達となり、朝鮮龍巌浦に大倉組製材所を設立しました。
海外貿易に携わる
明治4年(1871年)3月、新橋駅の建設工事を一部請け負います。
同じ時期には実業家・高島嘉右衛門らとともに横浜水道会社を設立しました。
同年、明治4年(1871年)横浜弁天通に貿易会社を設立し海外貿易も行うようになります。
渋沢栄一との出会い
明治5年(1872年)3月には銀座復興建設工事の一部を請け負い、明治8年(1875年)東京会議所の世話や斡旋を行う肝煎となりました。
この時、東京府知事・楠本正隆の要請で実業家として活躍していた渋沢栄一も東京会議所の肝煎となり、喜八郎と渋沢栄一は以降交流関係を持つようになります。
新規事業の設立
明治9年(1876年)ロンドンで大久保利通と会見した際に協議していた被服の製造所である内務省所管羅紗製造所を設立します。
明治10年(1877年)には現在の東京商工会議所である東京商法会議所、現在の横浜株式取引所である横浜洋銀取引所を皮切りに様々な新規事業の設立に携わりました。
鹿鳴館を建設
明治14年(1881年)には鹿鳴館建設工事に着工、大阪紡績会社も設立します
翌年の3月には矢島作郎、蜂須賀茂韶とともに日本初の電力会社・東京電燈を設立しました。
この際、宣伝の一環として銀座大倉組商会事務所の前で日本初となるアーク灯を点火したとされています。
帝国ホテルを建設
明治20年(1887年)には藤田伝三郎らとともに日本土木会社、内外用達会社を設立しました。
同年には帝国ホテルも設立します。
鉄道事業に携わる
明治26年(1893年)現在の大成建設である大倉土木組を設立し、その後、日本初の私鉄である東京馬車鉄道の他に、九州鉄道、山形鉄道、北陸鉄道、成田鉄道、台湾鉄道、京釜鉄道、金城鉄道、京仁鉄道など多くの鉄道事業に携わりました。
教育関係にも力をいれる
教育関係にも力をいれた喜八郎は明治32年(1899年)、韓国に善隣商業学校を創設し、明治33年(1900年)には私財50万円を投じて現在の東京経済大学である大倉商業学校を創設します。
また明治40年(1907年)9月には現在の関西大倉中学校・高等学校である大阪大倉商業学校を創設しました。
精力的な活動
明治39年(1906年)大日本麦酒株式会社設立に関係し、翌年の明治40年(1907年)現在の日清オイリオグループである日清豆粕製造、現在のニッピである日本皮革、現在の帝国繊維である帝国製麻、現在の東海パルプである東海紙料、日本化学工業を設立します。
昭和2年(1927年)には日清火災海上保険を買収し、現在のあいおいニッセイ同和損害保険である大倉火災海上保険とするなど精力的に活動を続けました。
南アルプスの登頂
昭和2年(1927年)1月5日、喜八郎は隠居を決め、嗣子・喜七郎が喜八郎の後を継ぐこととなりました。
隠居後、喜八郎は大正15年(1926年)8月に登山を好んだ秩父宮雍仁親王が立山を踏破したことに感激を受け、カゴと背負子に担がれた、いわゆる大名登山で南アルプスの赤石岳に登頂しました。
この時、88歳であったとされています。
大倉喜八郎の最期
その後、大腸がんを患っていた喜八郎は昭和3年(1928年)4月22日、92歳で亡くなりました。
葬儀には首相・田中義一や三井高棟、岩崎小弥太、蒋介石など様々な業界の人々が参列し、告別式では午前9時から午後3時までに1万1,989人が参列したとされています。
大倉喜八郎が関わった主な企業
- 帝国ホテル
- ホテルオークラ
- 大倉鉱業
- 大倉土木(現在の大成建設)
- 千代田火災海上(現在のあいおいニッセイ同和損害保険)
- 日清製油(現在の日清オイリオグループ)
- 東海パルプ
- サッポロビール
- リーガルコーポレーション
- 日本化学工業
- 富士銀行(現在のみずほ銀行)
- 太陽生命
など
大倉喜八郎が関わった主な建築
- 鹿鳴館
- 帝国ホテル
- 帝国劇場
- 大倉集古館
- 大倉山ジャンプ競技場
- 日本赤十字社
など
大倉喜八郎の息子や子孫
大倉喜八郎は川口たま子、持田徳子、久保井優、3人の女性と結婚しました。
川口たま子との子供
川口たま子との間には長男(幼死)と次男・文吉、長女(幼死)、次女(幼死)計4人の子供がいました。
持田徳子との子供
持田徳子との間には長男・喜七郎、三女・鶴子、四女・時子が誕生しました。
久保井優との子供
久保井優との間には長男・幸二、次男・雄二、三男・瑛三が誕生しました。
大倉喜八郎の名言
まとめ
大倉喜八郎の生い立ちや帝国ホテルを設立した経緯、南アルプス登山、子孫・息子や名言について解説いたしました。
実業家としてさまざまな分野で活躍した大倉喜八郎は2021年に放送予定の大河ドラマ「青天を衝け」に登場することが予想されています。