大森安仁子とは?生涯や逸話、大森兵蔵との関係性について解説!

大森安仁子とは、日本に初めてバスケットボールとバレーボールをもたらした大森兵蔵の妻となった女性です。

本名はアニー・シェプレーとされ、結婚後、帰化し「大森安仁子」と名乗り始めると、社会福祉施設・有隣園を設立しました。

2019年大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」に登場する大森安仁子の生涯や逸話、大森兵蔵との関係性について解説していきます。

大森安仁子の生い立ち

大森安仁子は安政3年(1856)12月7日、アメリカのミネソタ州で誕生しました。

本名はアニー・シェプリーといいます。

アニー・シェプリーが誕生したシェプリー家はもともと、イギリスからアメリカに来た開拓民であったため、裕福な家庭であったとされています。

幼いころから画家になるという夢を持ち、絵画の勉強をするため進学を希望しましたが、17歳の頃に父親を亡くし、画家になるという夢は断念せざるおえませんでした。

しかし、従兄弟の支援もあり、ボストン美術館大学へ進学することができ、絵の勉強に励みました。

そのかいもあってか、絵の才能を認められ、翌年にはニューヨークで絵の教師となり、また画家としてパリに渡航するなど、絵の制作を熱心に行います。

その後、画家として生計を立てていたアニー・シェプリーはアメリカコネチカット州ウッドストックの家を購入し、絵画制作に専念しました。

 

大森兵蔵との出会い

その際、絵画制作に集中するため、家政婦を雇うことにしたアニー・シェプリーは国際YMCAトレーニングスクール(現在のスプリングフィールド大学)に募集をかけます。

この大学にたまたま生徒として在学していたのが、日本人の大森兵蔵でした。

大森兵蔵は、明治9年(1876)岡山県で誕生した人物で、東京高等商業高校(現在の一橋大学)を経て、アメリカのスタンフォード大学に留学するも、日本人とアメリカ人の体格の差に驚き、日本人の体格向上のために運動の必要性を感じ、スタンフォード大学を中退、国際YMCAトレーニングスクール(現在のスプリングフィールド大学)で専門的なスポーツ知識を学んでいました。

そんな大森兵蔵がアニー・シェプリーが募集をかけた家政婦に応募すると、すぐさま面接を受けることとなります。

この時、大森兵蔵は30歳。アニー・シェプリーは49歳でした。

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大森兵蔵と交際に発展

アニー・シェプリーが募集した家政婦の応募に大森兵蔵は合格し、夏休みの間だけ雇われることとなります。

しかし大森兵蔵はアニー・シェプリーの口に合う料理が作れず、雇われてから2日後にはアニー・シェプリーが自ら料理をするようになっていました。

そのような状況であったため大森兵蔵は、家政婦を辞めたいとアニー・シェプリーに申し出ましたが、アニー・シェプリーは大森兵蔵を大変気に入っていたため、料理人を新たに雇い、大森兵蔵を使用人として留め続けました。

こうして大森兵蔵は、アニー・シェプリーの使用人として留まり続けましたが、いつしか2人は惹かれあうようになり、夏休みが明け、大森兵蔵がアニー・シェプリーの使用人を辞めても2人は文通をする仲になります。

 

結婚

こうして2人は交際するようになり、結婚を意識し始め、国籍の問題、年齢差を乗り越え明治40年(1907)10月1日にアメリカで結婚式を挙げました。

この時、大森兵蔵は31歳、アニー・シェプリーは50歳でした。

その翌年の明治41年(1908)2人は日本に帰国します。

 

有隣園の設立

夫となった大森兵蔵は帰国後、東京YMCAに就職し体育指導主事となりました。

バスケットボールとバレーボールを初めて日本に伝え、また日本人の体格向上には、幼少期からの運動が必要であると考えていた大森兵蔵はスポーツ・体育の推進のため体育館とプールの建設を計画します。

しかし、予算がないこと、また身体的鍛錬は軍隊で行われるものという考えから、大森兵蔵の提案は批判されるようになり、翌年の明治42年(1909)わずか1年で東京YMCAの体育指導主事を辞することなりました。

これに並行して大森兵蔵とアニー・シェプリーは、有志の夫人たちを集めた「有隣夫人」を設立し、明治44年(1911)に児童福祉施設である有隣園を設立しました。

有隣園は授産所・幼稚園・図書館などを備えた複合的な施設であったとされ、子供を指導し、後に保育園も取り入れられるようになります。

帰化し「大森安仁子」と名乗る

2人が結婚する際、夫・大森兵蔵の実家はアメリカ国籍であるアニー・シェプリーとの国際結婚を認めておらず、結婚は猛反対されていました。

しかし、結婚から4年後の明治44年(1911)にようやく、大森兵蔵の両親はアニー・シェプリーとの結婚を認め、アニー・シェプリーは帰化し「大森安仁子」と名乗り始めました。

 

ストックホルムオリンピック

明治44年(1911)、夫・大森兵蔵は大日本体育協会(現日本体育協会)を設立し、その理事長となります。

この大日本体育協会(現日本体育協会)は、日本が明治45年(1912)のストックホルムオリンピックに参加することが決まり、それに伴い設立されたものでした。

こうして夫・大森兵蔵は柔道の創始者とされ東洋で初めてのIOC(国際オリンピック委員会)の委員となった嘉納治五郎と共に、オリンピック実現のために奔走します。

一方、オリンピック予選も行われており、この予選では長距離走者で金栗四三短距離走者で三島弥彦が選ばれストックホルムへと渡航が決まりました。

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夫・大森兵蔵の最期

夫・大森兵蔵もストックホルムへと同行することとなり、この際、大森安仁子が夫・大森兵蔵に英語を教え支援していたとされています。

しかし、この頃になると、夫・大森兵蔵は結核を患っていたとされ、ストックホルムで選手らの練習に付き合うこともできず、部屋で療養する日々が続きました。

病状が持ち直した際は、妻・大森安仁子の親戚に会うためアメリカへと渡ったとされていますが、アメリカで再び病状が悪化し、大正2年(1913)36歳で亡くなりました。

 

大森安仁子の最期

夫・大森兵蔵が亡くなったため、大森安仁子はアメリカに残るという選択肢もありました。

しかし大森安仁子は夫の遺骨とともに日本に帰国し、その後、有隣園の運営に励み、また大正12年(1923)に起きた関東大震災では被災地でボランティア活動をしました。

戦時中になると、大森安仁子の運営する有隣園は反米感情から運営が厳しくなり、昭和6年(1931)頃から事業は縮小を余儀なくされ、その後、昭和16年(1941)8月3日、老衰によって85歳で亡くなりました。

 

まとめ

大森安仁子はスポーツを日本に推進した大森兵蔵の妻となったアメリカ人女性でした。

大森兵蔵とともに運営を行っていた有隣園は、大森安仁子の死後、アメリカの空襲を受けることとなり、焼失し、戦後も再開されることはなかったとされています。

大森安仁子は夫・大森兵蔵の死後、喪服しか着なかったとされ、亡き夫を偲び続けました。国籍や年齢を超え、2人は仲の良い夫婦であったことがわかります。