2019年4月30日、天皇陛下の退位によって平成時代に終わりが告げられ、5月1日からは明治維新以降5個目の元号へと引き継がれます。
平成時代の31年間が長いか短いかは個人差もあると思いますが、明治以降この平成よりも天皇陛下の在位期間が短い時代がありました。
今回はわずか15年の短い時代であった大正時代の天皇陛下・大正天皇をクローズアップしてみたいと思います。
誕生から子供時代、即位、そして崩御までを追いかけながら、健康状態や知的障害に関する話など、大正天皇の実際の姿に迫ってみたいと思います。
大正天皇の誕生から立太子礼まで
1879年(明治12年)8月31日午前8時20分、東京府赤坂区(現在の東京都港区)青山御所で明治天皇の第五子、第三皇子として誕生、明宮嘉仁(はるのみやよしひと)親王と命名されました。
明治天皇には正室と5人の側室との間に5男10女が誕生しましたが、成人したのは男性は大正天皇のみ、女性は4人だけで他の10人は死産もしくは夭折でした。
嘉仁親王は産まれた時に湿疹(皮膚炎)があったとされ、年が明けるまで重度の病気を患ったとされています。
1887年(明治20年)9月学習院に入学しますが、生来の病弱は変わらず小学校2年で83日欠席し留年、小学校6年生でも74日間欠席しています。
1889年、旧皇室典範により皇太子となりましたが、勉学の方は進歩を見せず1894年には健康不良のため勉学を続けることが難しいとして学習院を中途退学しました。
青年期から結婚、そして即位
学習院退学後は数人の教師によって教育がなされ、特にその養育、教育係として有栖川宮威仁親王(ありすがわのみやたけひとしんのう)が任命されました。
嘉仁親王は威仁親王を兄のように慕い、勉学では漢詩に興味を示したとされています。
18歳になると貴族院の皇族議員となり、1900年(明治33年)5月10日に貴族院議員で明治天皇の相談役を勤めていた九条道孝(くじょうみちたか)の四女・節子(さだこ)と結婚、四人の皇子に恵まれ、側室を持てる立場でありながら生涯にわたり側室をおくことはありませんでした。
健康が優れるようになると沖縄以外の各地へ行啓(ぎょうけい・外出、訪問)し、1907年(明治40年)には併合前の大韓帝国(現在の大韓民国)への外遊もしましたが、ヨーロッパへの訪問は明治天皇の反対により実現しませんでした。
1912年(明治45年/大正元年)7月30日、明治天皇の崩御により第123代天皇に即位し大正と改元されました。
天皇として成したこと
大正天皇は明治天皇とは異なり、立憲君主制でありながらも政治的な判断が不得手であったため、時の内閣に操られている印象を国民に与えていました。
また、健康的にもすぐれない時期があり、1913年(大正2年)には肺炎で重体となり復帰まで1ヶ月を要しました。
1914年、第一次世界大戦への参戦、1915年、即位の礼、またこの頃から政党政治が台頭し、政治勢力に大きな変化のあるなかで多忙を極めた大正天皇は心労も疲労もピークに達し公務を休みがちとなります。
1919年には勅語を音読することさえ叶わなくなり、政府は大正天皇の病状を公表し、摂政の設置の準備を始めました。
1918年、第一次世界大戦が終結、戦勝国となった日本はアジア大平洋地域への権益拡大など、外交的にも内政的にも大局的な判断を求められることが多くなります。
このため1921年、ついに当時20歳であった長男で皇太子の裕仁親王(ひろひとしんのう)を摂政に任命し、これ以降大正天皇が政務に復帰することはありませんでした。
晩年そして崩御
1925年、結婚25年目の節目を向かえた年の12月、重度の脳貧血を発症し4ヶ月もの間寝たきり状態となります。
一時は歩行も可能になるまでに回復しますが、翌年の5月に再び脳貧血の発作をおこし病床に就くことになります。
こののち病状は悪化の一途を辿り、言語障害や記憶障害、歩行困難などを次々と起こし、秋ごろには気管支炎を発症、食欲も減退し寝たままの状態になることが多くなります。
12月に入り、宮内省が大正天皇の病状を発表すると新聞各社は号外を出してこれを伝え、その紙面には「益々御危険」「御危篤」の文字が並ぶことになります。
国民のご回復の願いも虚しく、1926年12月25日午前1時25分、葉山御用邸にて実母・柳原愛子(やなぎわらなるこ)の手を握りながら心臓発作により崩御されました。
宝算(敬った年齢の言い方)47歳、産まれたときから病気に悩まされ続けた一生でした。
天皇の誕生日と祝日について
明治天皇の誕生日11月3日は文化の日、昭和天皇の誕生日4月29日はみどりの日から昭和の日と名称を変更しながら祝日となっています。
ところが大正天皇の誕生日8月31日は祝日にはなっていません。
明治天皇の誕生日は崩御から15年後に国民が議会に請願する形で誕生した祝日で当時は明治節とされていましたが、日本国憲法制定時に「文化の日」と名前を変えました。
昭和天皇の誕生日は天皇の崩御直後に国会が祝日法を改正し、みどりの日として祝日としました。
日本国憲法制定以前は天皇陛下の崩御した日が祝日となることが決まっており、大正天皇が亡くなった12月25日も1927年(昭和2年)から1947年(昭和22年)までの20年間は祝日となっていました。
大正天皇の誕生日が休日にならなかったのは休日にしようとする世論が盛り上がらなかったのが最大の理由のようです。
知的障害について
大正天皇は生来の病弱と遠眼鏡事件などによって暗愚または知的障害があったのではないかと言う風説が流布されました。
病弱であったことは間違いないようですが、1367にも及ぶ漢詩と456首の和歌を残すなど、暗愚と言う言葉は失礼に値すると思われます。
また38歳の時に発語障害、歩行困難等の障害があったとされていますが、この時大正天皇はすでに脳膜炎や極度の疲労により重度の病状にあったと考えられています。
遠眼鏡事件とは、大正天皇が国会で勅語を読んだあと、その勅語を丸めて遠眼鏡のようにして議員席を見渡したとされる事件の事ですが、これを伝えた幾つかの記事の日付や内容が異なっており、その信憑性は薄く、丸めたままで勅語の上下を確認した、確実に丸めてあるかどうかを確認したという伝聞もあり、この話をもって大正天皇が暗愚というには決定力に欠けると言わざるを得ません。
大正天皇の子孫、子供
大正天皇自身は病弱であったようですが、貞明皇后(ていめいこうごう)との間に生まれた4人の皇子は成人し、皇族としてその職責を果たされました。
長男・迪宮裕仁親王(みちのみやひろひと)
1901年(明治34年)~1989年(昭和64年)
第124代昭和天皇
次男・淳宮雍仁親王(あつのみややすひと)
1902年(明治35年)~1953年(昭和28年)
秩父宮家を創設、1995年後継なく断絶。
明治神宮外苑にあるラグビー専用競技場にその名を残しています。
三男・光宮宣仁親王(てるのみやのぶひと)
1905年(明治38年)~1987年(昭和62年)
高松宮家を創設、2004年後継なく断絶。
中央競馬、競輪、野球大会などスポーツや公営ギャンブルのタイトルに多くの名前を残しています。
四男・澄宮崇仁親王(すみのみやたかひと)
1915年(大正4年)~2016年(平成28年)
三笠宮家を創設、三男二女を授かりますがその後は男子に恵まれず、存命の親王妃と女王の薨去(こうきょ)、または皇籍離脱によって断絶となることが決まっています。
大正天皇の逸話
非常に気さくな性格であったと伝えられており、列車での移動も一般車両に乗車し、乗客に話しかけたり、お泊まりの宿を勝手に抜け出して蕎麦屋に食べに行ったり、競馬を観戦したときは、終始立ち上がって叫び続けたとの話が伝えられています。
明治天皇と同様に非常に愛煙家であったと伝えられていて、葉巻なども好んで愛用しており、健康を心配した東宮大夫(とうぐうだいぶ)が声を掛けると、1本の葉たばこにたくさんの葉を詰めた特別なタバコを作って欲しいと言われ、実際にこのようなタバコを作らせたそうです。
非常に子煩悩で、鬼ごっこや将棋などを皇子たちと楽しんでいたそうで、昭和天皇が6歳のクリスマスには靴下にプレゼントを詰めて贈ったと伝えられています。
大正天皇とクリスマスは浅からず縁があり、大正天皇が崩御した12月25日はクリスマス当日にあたり、1927年(昭和2年)から1947年(昭和22年)までの20年間は祝日となっていました。
このためクリスマスのイベントは休日に行われることとなり、これが日本にクリスマスを定着させる事に繋がったと言われています。
まとめ
明治維新から富国強兵、殖産興業、日清、日露戦争など近代国家への改革と、対外拡張政策を進め、激しく時代が動いた明治時代。
アジアの盟主として軍事拡張、大陸進出、太平洋戦争そして敗戦、戦後復興、高度経済成長と日本の存亡がかかっていた昭和時代。
そのエアポケットのように、わずか15年間のみ存在した大正時代は、日本近代史でも影が薄く、国民に対してもその個性を見せることなく崩御された大正天皇は、日本国民の記憶や日本史の記録の中にはほとんど残ることなく置き去りにされた存在になっています。
このため大正天皇に対しては色々な流言や風説が流され、実態とは異なるイメージが作られているようです。
今後、日本近代史が深く研究され、負の印象が強い大正天皇のイメージが真実に近づくことを願って締め括りたいと思います。