山本五十六とは?「やってみせ」などの名言、子孫や評価について解説!

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山本五十六とは、海軍軍人で第26、27代連合艦隊司令長官、元帥海軍大将となった人物です。

山本五十六は「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」という言葉を残し、この言葉は警察予備隊、保安隊、自衛隊の教育方針として引き継がれるようになります。

太平洋戦争中、前線を視察した際に山本五十六の乗った搭乗機がアメリカ軍戦闘機によって攻撃されブーゲンビル島上空で亡くなりました。

そんな山本五十六の生涯、評価、子孫、「やってみせ」などの名言を解説していきます。

山本五十六の生い立ち

山本五十六は明治17年(1844)現在の長岡市坂之上町3丁目付近である新潟県古志郡長岡本町玉蔵院町の旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男として誕生します。

山本五十六が誕生した当時、父・高野貞吉が56歳であったため、「五十六」と名付けられました。

長岡町立阪之上尋常小学校を経て旧制新潟県立長岡中学校に入学し卒業します。

兵学校を志望していた10歳年長の甥・高野力が亡くなった際、母が五十六が軍人になってくれればいいのに。と述べたことから、山本五十六は軍人を目指し海軍兵学校に明治34年(1901)に入学しました。

日露戦争が行われていた明治37年(1904)11月、山本五十六は海軍兵学校を卒業します。

 

装甲巡洋艦「日進」に配属となる

その後、明治38年(1905)1月に少尉候補生として装甲巡洋艦「日進」に配属となり日本海海戦に参加しました。

この日本海海戦において山本五十六は左手の人差指と中指を欠損、左大腿部を重傷といった大怪我を負います。

左腕切断の可能性もありましたが回復すると防護巡洋艦「須磨」に5ヶ月、戦艦「鹿島」に5ヶ月、海防艦「見島」に4ヶ月、駆逐艦「陽炎」に4ヶ月と勤務を行いました。

この間、海軍砲術学校普通科学生、海軍水雷学校普通科学生として教育を受けたとされています。

明治42年(1909)山本五十六はアメリカに駐在し、明治44年(1911)には海軍大学校乙種学生を卒業し海軍砲術学校と海軍経理学校の教官となります。

 

明治天皇の崩御

明治天皇が崩御し、大正と元号が変わった大正2年(1913)山本五十六の両親は亡くなります。

同年12月、海軍大学校に入学し、この在学中の間に旧長岡藩家老の家柄の山本家を相続することとなります。

よって姓が山本と変わりました。

大正5年(1916)12月、海軍大学校を卒業すると翌年の1月には腸チフスを患い、また発症した虫垂炎によって命の危険に陥り、翌年の6月まで休養となりました。

大正6年(1917)7月、海軍省軍務局員を務めた後、海軍教育本部第一勤務となります。

この頃、友人の紹介で三好礼子と出会い、交際に発展し同年8月31日に結婚しました。

アメリカの産業の視察、海軍空隊へと転科

大正8年(1919)4月5日にアメリカでの駐在命令が出たため、山本五十六はハーバード大学に留学します。

アメリカに渡った山本五十六はアメリカの自動車産業、飛行機産業、油田などを視察し、日本と比較し生産、流通の圧倒的な差を自覚し衝撃を受けました。

大正10年(1921)7月19日に帰国すると軽巡洋艦「北上」副長、海軍大学校教官となります。

その翌年の大正11年(1922)には海軍の井出謙治大将と共にヨーロッパ、アメリカを視察しました。

この視察の最中、日本では関東大震災が起こります。

この頃、山本五十六は海軍省副官または元帥副官にならないか、と話が持ち掛けられていましたが、山本英輔の推薦によって海軍空隊へと転科し、大正13年(1924)9月、霞ヶ浦航空隊付、12月には教頭兼副長となります。

この時、山本五十六は三和義勇から航空機の操縦方法を学びました。

大正14年(1925)12月、駐米大使館付武官となったため再びアメリカへと渡ります。

この際も、アメリカにおける自動車、航空機や船舶などの生産技術を視察し、翌年の3月に帰国します。

 

ロンドン会議に出席

昭和3年(1928)の8月から軽巡洋艦「五十鈴」艦長を務めた山本五十六は水雷学校での講義の最中、日本軍はハワイを侵攻するべき、将来、海軍は航空主兵となるべき。と述べています。

その後、多段式空母「赤城」艦長に就任し昭和4年(1929)11月には海軍少将に進級し、ロンドン軍縮会議にも参加します。

このロンドン会議は、世界の海軍の補助艦保有量の制限を目的とした会議で、日本は補助艦保有量を対英米7割を希望していましたが、アメリカの要望に応じて対英米6.975割とする妥協案となりました。

この妥協案に対し、「条約妥結やむなし」とする条約派と、妥協案に反対する艦隊派が対立関係となり、海軍随員であった山本五十六は艦隊派から同士であると見なされることとなります。

またこの頃、濱口内閣の蔵相の井上準之助が緊縮財政を行っており、その緊縮財政において海軍は予算が大幅に削られていたことから、海軍随員である山本五十六と山口多聞はこの緊縮財政に反対しました。

結局、このロンドン会議では妥協案である軍縮条約に調印することとなりました。

 

海軍航空本部技術部長に就任

昭和5年(1930)12月、山本五十六は海軍航空本部技術部長に就任となります。

この際、航空主兵の強力、日本海軍航空機の発展などを行いました。

昭和7年(1932)山本五十六は海軍航空機の製作条件に国産、全金属、単葉機を掲げます。

複葉機を単葉機に変更すると、単葉機は着艦距離が伸びるため問題となりましたが、母艦発着甲板を長く制作することで、解決となりました。

航空主兵論に着目

昭和8年(1933)10月に第一航空戦隊司令官となり、空母「赤城」に座乗します。

同年9月20日には第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉の海軍側首席代表として参加するためロンドンへと向かいました。

昭和10年(1935)2月、日本へと帰国すると、同年12月に海軍航空本部長に任命されます。

この頃になると、世界各地で新世代戦艦が開発されるようになり、日本も大和型戦艦の建造計画をたて始めました。

この時、山本五十六は航空本部教育部長・大西瀧治郎大佐と共に反対論を発し艦政本部と対立となります。

当時、日本や世界は砲撃戦を重視し航空戦力ではなく、巨大な主砲を軍艦に備え付けるべきだという思想の大艦巨砲主義が台頭していました。

しかし、山本五十六はこの大艦巨砲主義に対し、航空技術は飛躍しているため、軍艦を撃退することのできる航空機が登場すると確信し航空戦力が軍の中核になるという航空主兵論に以前から着目していました。

よって山本五十六は96式陸攻や零戦攻撃機の量産を行い、航空戦力を強化しましたが、攻撃力の弱い戦闘機を軽視したことによって戦闘機無用論者と見なされました。

しかし、山本五十六が大艦巨砲主義が台頭する中、いち早く航空主兵論に着目したことは高く評価されています。

 

海軍次官に就任

昭和11年(1936)11月25日、日独防共協定が締結され、12月1日には海軍次官に就任となります。

昭和12年(1937)に盧溝橋事件が起き日中戦争に拡大、また中華民国軍と日本軍との軍事衝突である第二次上海事変が起きました。

この際、海軍航空隊も投入されることとなります。

8月になると、ナッチボルー・ヒューゲッセン駐華イギリス大使が日本軍機の誤爆で負傷した事件、12月になると海軍航空隊が米砲艦を誤爆したパナイ号事件の解決に向けて動きます。

 

第26代連合艦隊司令長官に就任

昭和14年(1939)山本五十六は8月30日、第26代連合艦隊司令長官に就任となりました。

この時、山本五十六はアメリカと戦争することは無謀と考えながらも連合艦隊司令長官として作戦を練り、連合艦隊参謀長・福留繁にハワイ奇襲作戦について述べていたとされています。

昭和15年(1940)ナチス・ドイツが第二次世界大戦緒戦においてヨーロッパ全域を掌握したため、以前から日独伊三国同盟の締結に反対していた山本五十六でしたがドイツに接近を行いました。

省部合同会議において三角同盟が締結されると、日本海軍は海南島占領や北部仏印進駐を行ったため、イギリスやアメリカの関係は悪化となります。

昭和16年(1941)の1月7日に記された海軍大臣・及川古志郎への書簡の中には、真珠湾攻撃を検討していることが記され、その際には、自身を第一航空艦隊司令長官に格下げし直接、真珠湾攻撃の指揮をとりたい。ということも記されました。

 

南方作戦(第一段作戦)の成功

同年8月11日、連合艦隊司令長官に再任となり、9月になると真珠湾攻撃図上演習が海軍大学校で行われます。

こうして12月8日、日本陸軍はマレー半島のイギリス軍に攻撃を仕掛けたマレー作戦でイギリス軍と開戦、続いてアメリカ海軍に対する真珠湾攻撃で、アメリカ軍と開戦が始まりました。

12月10日に行われたイギリス海軍との戦闘であるマレー沖海戦においてイギリスの新型戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」「レパルス」を撃沈し、成功に終わります。

このマレー作戦、真珠湾攻撃、マレー沖海戦は南方作戦(第一段作戦)と呼ばれ、第一段作戦が成功すると第二段作戦に取り掛かりました。

奇襲とはいえアメリカ軍に攻撃を仕掛け、成功に終わった真珠湾攻撃は、山本五十六の高い評価に繋がります。

 

第二段作戦の決行

2月22日、日本海軍の潜水艦でアメリカ本土を砲撃を行います。

これに対しアメリカ軍は4月18日、日本において初となる空襲(ドーリットル空襲)を行いました。

5月8日になるとポートモレスビー(パプアニューギニアの首都)の攻略を目標とした珊瑚海海戦が行われましたが、失敗に終わりポートモレスビー作戦は延期となります。

その後、日本軍はミッドウェー島の攻略とアメリカ機動部隊の殲滅を目的としたミッドウェー作戦を計画します。

しかし6月5日に、ミッドウェー島を攻撃していた日本軍に対し、アメリカ機動部隊が攻撃を仕掛けてきたためミッドウェー海戦が勃発することとなりました。

このミッドウェー海戦は日本軍の南雲艦隊の主力空母4隻他がアメリカ軍の攻撃を受け大きな損失となり敗北となりました。

 

ガダルカナル島の戦い

ミッドウェー海戦において大敗した日本軍でしたが、6月にはアラスカにあるダッチハーバーの海軍基地を空襲、9月にはアメリカ本土に2度の空襲を実施します。

昭和17年(1942)8月、アメリカ軍は日本軍の飛行場のあったガダルカナル島に来襲し、飛行場を占領しガダルカナル島の戦いが始まりました。

この戦いにおいて日本は苦戦を強いられ、昭和18年(1943)1月に撤退命令が出されました。

この戦いにおいて兵員、軍艦、航空機また武器などを多く失う結果となります。

 

い号作戦の成功

その後、ガダルカナル島やニューギニア島南東部のポートモレスビーなどに空襲を行った「い号作戦」が4月7日から15日にかけて行われました。

これにおいてアメリカ軍は駆逐艦、コルベット艦、油槽船などを失う結果となり、この「い号作戦」は成功に終わります。

 

山本五十六の戦死

「い号作戦」終了後、山本五十六はブーゲンビル島、ショートランド島にいる兵士を労うためショートランド島の近くにあるバラレ島基地に向かう予定をたてます。

この計画は「武蔵」艦隊司令部から関係者に暗号電文で知らされましたが、アメリカ海軍情報局はこの暗号電文を解読し、山本五十六がバラレ島基地に向かうという情報を手に入れました。

アメリカ軍によって暗号電文が解読されたことを知らない山本五十六と日本軍は4月18日午前6時、第七〇五航空隊の一式陸上攻撃機2機に乗り、バラレ島基地に向かいます。

しかし、山本五十六と日本軍がバラレ島基地に向かうことを知っていたアメリカ軍はブーゲンビル島上空で襲撃し、山本五十六の乗る一式陸上攻撃機は墜落し、59歳で戦死となりました。

この事件は後に海軍甲事件と呼ばれることとなります。

「やってみせ」

山本五十六は「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」という格言を残しました。

この言葉は警察予備隊や保安隊、自衛隊の教育方針に引き継がれました。

また「男の修行」という言葉も残されています。

 

子孫

山本五十六は、三橋康守の三女・山本礼子と結婚し4人の子供が誕生しました。

 

長男・山本義正

山本五十六の長男で著述家となった人物です。

 

次男:山本忠夫

山本五十六の次男で英語学者となった人物です。

 

長女:山本澄子

 

次女:山本正子

 

最後に

真珠湾攻撃などの南方作戦の後、日本軍は4か月ほどの間でアメリカ軍の戦闘で勝ち続けていましたが、珊瑚海海戦以降はアメリカ軍に押され続け、山本五十六はブーゲンビル島上空でアメリカ軍によって攻撃され亡くなりました。

その後、山本五十六は墜落した戦闘機に座り、軍刀を握った姿で発見されたとされています。

山本五十六が亡くなった昭和18年(1943)はまだ日本本土で「玉砕」のニュースはされておらず、日本国民は日本軍は連戦連勝であると信じていた時期でした。

このような時期に山本五十六は戦死したため、日本国民は山本五十六を常勝の提督として祭り上げられることとなりました。