あだ名は、火吹き達磨。元の名は村田蔵六。明治維新十傑の一人である大村益次郎は、文政7年5月3日、村医の村田孝益、妻うめとの間に、長男として誕生しています。
幼いころより優秀だった彼の人生とは、どのようなものだったのでしょうか。
江戸幕府解体から明治維新にかけて、目まぐるしい活躍を見せた大村益次郎がなぜ暗殺されたか、また、靖国神社に銅像が立っている理由や彼の子孫についても含め、大村益次郎の45年の人生をひも解いてみたいと思います。
蘭学や医学など様々な学問を学ぶ
天保13年、益次郎は18歳の時、山口県防府にて、シーボルトの弟子であった梅田幽斎から医学、蘭学を学んだ後、儒学者の広瀬淡窓が創立した私塾咸宜園に入塾し、漢籍、算術等を習います。
その後、大坂に向かい、緒方洪庵が開く適塾で蘭学を学び、塾頭を任じられますが、嘉永3年、父に請われて再び帰郷し、村医村田良庵と名を改めます。その翌年、高樹半兵衛の娘琴子と結婚し、仲良く暮らしますが、生来の無愛想な性格は治らず、村人たちからの村医としての評判は低かったようです。
益次郎は蘭学だけでは満足せず、医学、兵学、化学等、様々な西洋の学問に興味を抱き始めます。医者としての才能の無さを痛感していたのでしょうか。
ペリーの来航で講武所の教授に
その益次郎に転機がやってきます。嘉永6年、ペリーが率いた黒船が来航し蘭学の需要が高まると、蘭学者の二宮敬作に推挙され、幕末四賢候の一人である伊達宗城が治める宇和島藩で、兵学、蘭学を教えることになります。
藩主に従い、江戸へ向かい、麹町にて私塾鳩居堂を開き、蘭学、兵学、医学を教える傍ら、幕府の蕃書調所教授方手伝、講武所教授として活躍します。
1858年、長州藩にて開催された蘭書会読会の席で桂小五郎に出会い、彼の人生は更に広い世界へと漕ぎ出していくこととなります。
長州征討、戊辰戦争等での活躍
桂小五郎から、高杉晋作が創設した奇兵隊の軍制改革を任せられた益次郎は、馬廻役譜代100石取の上士となったことを機に、村田蔵六から大村益次郎永敏へと改名します。
益次郎は、長州藩の軍制改革を行うため、イギリスから最新の西洋兵器を購入、兵士たちの育成、軍の組織改革に取り組み、長州軍を日本初の近代的軍隊に生まれ変わらせることに成功します。
長州征伐、戊辰戦争等、幕府と長州藩との戦いでは、最新兵器を用いて合理的な戦術を立て、長州藩を勝利に導きます。この勢いのまま、明治維新への道を切り開いたと言っても過言ではありません。
明治2年、新政府の幹部となった益次郎は、木戸孝允、大久保利通らと激論を交わし合いながらも、近代日本の軍制建設を指導する立場として、活躍します。
益次郎の暗殺
その益次郎が暗殺されたのは、大阪城内、天保山の軍事基地を検分した翌日、9月4日夕方のことでした。
京都三条木屋町上ルの旅館にて、静間彦太郎、安達幸之助と会食して時に、元長州藩士の団伸二郎、神代直人ら8人に襲われ、静間彦太郎、安達幸之助はその場で死亡、益次郎は、前額から左こめかみ、右ひじ、右ひざ関節に傷を負い、右ひざの傷は特に深手を負います。
益次郎は一命をとりとめますが、傷口から菌が入ったことによる敗血症と診断され、蘭医・ボードウィンにより、左大腿部切断手術を受けることとなりますが、手続きに手間取り、手術を行ったのは、症状が悪化した状態の10月27日。
看護の甲斐むなしく、11月5日夜に急変し、敗血症にて死去。享年46歳になります。
余談ですが、益次郎が京都に入った際、益次郎を慕う西園寺公望は出かけようとしましたが、旧友に会ったことからその場所へ向かえず、難を逃れています。
あの時、益次郎に会っていたら、現在の立命館大学はなかったかもしれません。
靖国神社に益次郎の銅像がある理由
大村益次郎の銅像を靖国神社に設置した人は、国軍の父と呼ばれた山縣有朋です。
長州征討、戊辰戦争において、長州藩の兵士を指揮し、長州藩を勝利に導き、明治維新の立役者となった益次郎を顕彰し、設置されたものになります。
しかし、なぜ靖国神社に益次郎の銅像が立っているのでしょうか。
靖国神社は、東京九段下にあります。この場所は、以前は陸軍省の管轄下にありました。益次郎は、日本帝国陸軍の基礎をつくった人物であり、その所以から、靖国神社の参道に設置されています。
ちなみに、益次郎が西郷隆盛の像が設置されている上野の方を向いているとの都市伝説のような話がありますが、除幕式が行われたのは、大村益次郎が明治26年、西郷隆盛は明治31年になります。
大村益次郎の子孫
大村益次郎と妻・琴子の間には、実子は誕生しておりません。
子孫は、山本藤右衛門から譲り受けた養子・大村松二郎から始まりますが、松二郎は明治12年28歳で死去。
松二郎の養子としたのは、亀山教霖の子である大村寛人で、寛人も明治25 年24歳で死去しています。
その後、長州藩最後の藩主であった毛利元徳公爵の子大村徳敏を譲り受け、現在は、玄孫である大村泰敏が大村益次郎の家を継いでいます。
ちなみに、益次郎の妻琴子は、松二郎、寛人を見送り、徳敏に大村家を託した後、明治38年、73歳で死去しています。