長州征伐には、第一次長州征討と第二次長州征討があります。
この長州征伐に、歴史上もっとも有名な西郷隆盛と坂本龍馬が関わっていたことをご存知でしょうか。
それぞれ、第一次・第二次長州征討ではどのようなことがあったのか、西郷隆盛、坂本龍馬は何をしたのかについて、解説していきます。
第一次長州征伐
1863年、会津藩、薩摩藩を中心とする公武合体派が尊王攘夷論を唱える長州藩、急進派の公卿等を京都から追放する八月十八日の政変が勃発します。
この政変を不服とする長州藩は、会津藩主である京都守護職松平容保らを排除するため、京都を目指して挙兵し、市街戦を繰り広げました。これが、第一次長州征伐のきっかけとなった禁門の変です。
大砲を投入する公武合体派に対し、なすすべのない長州藩は400名という大きな損害を被り、撤退せざるを得ない状況に追い込まれてしまいます。
藩主・毛利慶親、その子・毛利定広は国許での謹慎を命じられることとなり、尊王攘夷派の若者たちは政治的な主導権を失うこととなりました。
この戦いで、御所内に向けて砲撃を放った長州藩は朝敵となり、孝明天皇は長州伐令を公布するよう命令します。これが、第一次長州征伐の始まりです。
第一次長州征討における西郷隆盛の変心
幕府軍の総督であった前尾張藩主・徳川義勝は、幕府から長州征伐を行うよう言い渡され、あまり乗り気でない義勝は断り続けますが、受け入れてもらえません。
交渉の末、全権を任せてもらえるのであればと言う条件付きで引き受けることになり、その参謀に、西郷隆盛を指名します。
長州征伐を行う前に、西郷隆盛は勝海舟に会って長州征伐の相談を行いますが、公武合体が限界にきていること、新政権の実現が迫られていることを聞き、考えを変えます。
西郷隆盛らは長州藩と交渉し、藩主の謝罪文、3家老の切腹、三条実美らの追放、山口城の破却を受け入れれば、長州征討は行わないと伝えました。
長州藩はその案を受け入れ、辛うじて存続することが決まりましたが、戦わずして敗北したこととなってしまったのです。
奇兵隊の発足
第一次長州征伐の際、真っ先に狙われたのが、奇兵隊を組織した高杉晋作です。
高杉晋作は長州藩の尊王攘夷運動の中心人物であったため、弾圧の標的として最初に名前が挙がっていた人物になります。
潜伏先の福岡にて、長州藩が幕府の提示するすべての条件を受け入れ、徹底して恭順の姿勢を貫くことを知った高杉晋作は、長州藩の藩政を握る上層保守派から武力をもって打倒することを決意し、奇兵隊を発足させます。
ですが、その声に集まった人数は後の総理大臣となる伊藤博文、山形有朋らわずか80名ほどでした。
第二次長州征伐
第二次長州征伐とは、幕府が15万もの大軍で長州藩の討伐に乗り出した出来事です。
普通なら、それほどの大軍に攻め込まれたらひとたまりもありませんが、高杉晋作が起こしたクーデターは、坂本龍馬による薩長同盟において、実を結ぶ結果となりました。
薩長同盟で最新式の武器、艦船の購入をしたことで、第二次長州征伐で勝利を収めることができたのです。
第二次長州征討の戦況
幕府軍は、石州・芸州・大島・小倉から攻め込む作戦を取りますが、芸州石州口に待ち構えたのは天才・大村益次郎になります。
射程距離の長いミニエー銃を使いこなす大村益次郎はこの戦いで圧勝し、浜田城、石見銀山の要所を抑え、小倉城を陥落させます。
奇兵隊による大島奪回を耳にした幕府軍は、徳川家茂が病死したこともあり、勝海舟に長州との講和を結ぶよう命じます。
幕府軍を指揮していた徳川慶喜が朝廷に休戦協定を願い出て、事実上の撤退となりました。
長州征伐における西郷隆盛
長州藩と薩摩藩はひと言でいえば、犬猿の仲という言葉がぴったり当てはまる関係になります。
公武合体と開国を唱える薩摩藩と尊王攘夷を唱える長州藩では相いれないのは至極当然のことですが、薩摩藩の西郷隆盛は弱っていく幕府の現状を考え、その長州藩と協力すべきという坂本龍馬らの声に耳を傾けます。
1867年9月、西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀らと桂小五郎、伊藤博文らは、山口市に今も残る枕流亭で1回目の会合を行いますが、西郷隆盛と桂小五郎の意見が合わず、そのまま散会します。
その2週間後、京都にある小松帯刀邸にて、再び会合し、ようやく薩長同盟成立となりました。
西郷隆盛、桂小五郎らはこの会合で両者ともに協力し合い、一緒に幕府を討つことに合意し、連合討幕軍を結成します。
薩長同盟の成立は、薩摩藩が第二次長州征討へ参加しないことを決定づけ、倒幕へ向かって薩摩藩、長州藩が足並みをそろえたことを証明するための会合であったと言っても過言ではなく、先見の明を持った西郷隆盛だからこそ実現できた同盟ともいえるでしょう。
長州征伐における坂本龍馬
薩長同盟のきっかけになったユニオン号の運用を任されていたのが、坂本龍馬が結成した亀山社中です。
ユニオン号は、グラバー商会から、薩摩藩の名義で長州藩が50000両もの大金を出して買い入れた船になり、薩摩藩では桜島丸、長州藩では乙丑丸と呼ばれていました。
龍馬は、大政奉還実現のために長州藩の桂小五郎と薩摩藩の西郷隆盛の二人を下関で会わせることを画策しますが、西郷隆盛の急なキャンセルにより長州藩との仲は険悪状態となります。
そこで考えたのが、外国製の艦船や武器を購入できない長州藩のために、薩摩藩名義で武器、艦船の購入をして長州藩に引き渡し、その見返りとして、薩摩藩が欲していた兵糧米を長州藩が提供することです。それを実行に移すために購入したのが、ユニオン号になります。
ちなみに、このユニオン号も第二次長州征伐の際、長州藩の求めにより下関開戦に参加しています。
さいごに
長州藩は幕府、朝廷、公武合体派から疎まれ、その結果、長州征討が起こりました。
本来であれば、長州藩自体が無くなってもおかしくないのですが、この長州征討がきっかけで幕府の力の無さを露呈し、倒幕へと進む流れができたのです。
まさに事実は小説よりも奇なりということを示す歴史上の出来事だったわけです。