五摂家(ごせっけ・近衛、九条、二条、一条、鷹司)に次ぐ公家の家格である清華家(せいがけ)の一つである名門・三条家の出身で、早くから尊王攘夷派の公家として活躍し、多くの挫折を味わいながらも攘夷派公家の旗頭として立ち続け、明治新政府でも常に首班の位置で政府の行方を見守り続けた三条実美(さんじょうさねとみ)。
犬猿の仲と囁かれた岩倉具視とともに朝廷を代表する反幕府の人物は、名門の家柄出身がゆえに常に担がれる役回りで、矢面に立たされながらも信念を曲げることなく、明治維新まで尊王攘夷の火を燃やし続けました。
内に秘めた情熱の貴公子、三条実美とはどのような人物だったのでしょうか?
55歳で亡くなったあとその子孫がどうなったのかまで、彼の家系図や岩倉具視との関係などを含め、その生涯を追い掛けてみたいと思います。
名門の家柄出身の三条実美
天保8年2月7日(1837年3月13日)藤原北家閑院流(ふじわらほっけかんいんりゅう)の嫡流で、太政大臣まで昇任できた清華家(せいがけ)七家の一つ・三条家の当主・三条実万(さんじょうさねつむ)の三男として誕生します。
父である三条実万は1848年から武家伝奏(ぶけてんそう・幕府や武家の要望を朝廷に取り次ぐ役目)に就いており、幕府と何度も対米政策について交渉していましたが、1859年の日米修交通商条約の勅許賛成派の関白・九条尚忠(くじょうひさただ)と対立し、参内停止を命じられます。
これを知った攘夷派の孝明天皇は激怒して、逆に九条尚忠の関白の職権を停止しました。
その後復職した三条実万でしたが、1859年の安政の大獄に連座して謹慎処分を受けた後に出家し、その年に死去しました。
跡目は次男の三条公睦(さんじょうきんむつ)が継ぎますが、27歳の若さで死去したため、三条家は三男の三条実美が継ぐことになります。
父の影響を強く受けた三条実美は、朝廷の中でも有数の尊王攘夷派公家として活動していくことになります。
三条実美の尊王攘夷活動
国事御用掛(こくじごようがかり)となった1862年に勅使の一人として江戸に赴き、14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)に攘夷決行の督促を行ったり、姉小路公知(あねがこうじきんとも)とともに孝明天皇の大和行幸を企画するなど、長州藩と緊密な関係を維持しながら攘夷運動を活発化させていきます。
ところが翌1863年5月に姉小路公知が朔平門外の変(さくへいもんがいのへん)で襲撃され死去。8月には中川宮朝彦親王(なかがわのみやあさひこしんのう)を擁する会津藩、薩摩藩ら公武合体派が長州藩や朝廷内の尊王攘夷派一掃を画策し、孝明天皇の密命を受けてこれを実行に移しました。
長州藩は御所堺町御門の警備の任を解かれ、藩主毛利敬親(もうりたかちか)・定広(もうりもとのり)父子も処罰され長州藩は京都を追われることになります(八月十八日の変)。
これにともない尊王攘夷派であった三条実美は禁足、面会禁止の処分の後、朝廷を追放となり京都から長州藩兵に守られて三条西季知(さんじょうにしすえとも)ら同じく追放処分となった6人の公家と共に長州藩の三田尻港(山口県防府市)へ逃れます(七卿落ち)。
尊王攘夷派の三条実美と公武合体派の岩倉具視。
長州藩へ逃れた三条実美らは1864年から始まる第一次長州征伐の後に筑前国太宰府(現在の福岡県太宰府市)の太宰府天満宮の延寿王院(えんじゅおういん)で約3年間の幽閉生活を送ることになります。
しかしこの間に高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文らの長州藩士をはじめ、西郷隆盛、大山巌、村田新八などの薩摩藩士、中岡慎太郎、田中光顕、佐々木高行の土佐藩系の志士も多く訪問しており、坂本龍馬も訪れたとの記録もあります。
岩倉具視が朝廷を動かす
三条実美が朝廷を追放されたあと、朝廷を動かし始めたのは岩倉具視(いわくらともみ)でした。
三条実美と真逆の立ち位置であった岩倉具視は、和宮降嫁や幕閣とも親しかったために尊王攘夷派が朝廷の実権を握ったときに佐幕派と見られ失脚、結果的に1867年まで岩倉村に蟄居することになります。
しかし1864年の禁門の変で攘夷派が京都から一掃されると、赦免こそされませんでしたが薩摩藩が接近を始め朝廷内の公武合体派も頻繁に訪問するようになり、岩倉具視は実質的に復権しました。
この後1867年11月に正式に赦免されるまで影で朝廷政治を操り、第二次長州征伐軍の解体工作や親幕府だった中川宮や関白・二条斉敬(にじょうなりゆき)の追放、孝明天皇の暗殺(証拠はなく、あくまで噂の域をでない)などを画策したとされています。
明治維新前は二人は主義が異なったため接点も少なく、仲が良かったと言う話は残っていません。
三条実美の復権と明治新政府
慶応3年(1867年)の王政復古の大号令によって赦免、京都へ戻った三条実美は議定となり、翌年1868年には副総裁、戊辰戦争後には内大臣から太政大臣となり、明治新政府の頂点に立つことになります。
しかし、1873年の西郷隆盛、板垣退助らの征韓論派と岩倉具視、大久保利通らの反対派との対立ではこれを仲裁することができず、心労がたたって心神耗弱状態になったと言われ、岩倉具視に太政大臣の座を実質的に譲ることになりました。
1885年太政官制の廃止、内閣制度の発足に伴い、新たに創設された名誉職的な内大臣に就任します。
この後は黒田清隆の総理大臣辞職に伴う内閣総理大臣兼務以外に表舞台に出ることはなく、1891年インフルエンザ感染の悪化によって死去、葬儀は国葬で執り行われました。
三条実美の子孫や家系図
三条実美が八月十八日の変で京都を追放になり、公卿の籍からはずされたため、三条家は三条実美の兄・三条公睦の次男・三条公恭(さんじょうきんあや)が継ぎます。
三条公恭は浪費家
三条公恭は王政復古によって三条実美が復権すると家督を実美に返しますが、実美は公恭を養子とし三条家の後継者とします。
しかし公恭は浪費癖、遊興が大好きで日々の生活に困るほどお金に困窮、実美の忠告も聞かずにいたため、ついには廃嫡され長男の実敏が継いだ東三条家に放り出されます。
三条家の家系図
三条家はこの後、実美の次男・三条公美(さんじょうきみよし・貴族院公爵議員)が継いでいます。
三条実美には妻・治子との間に三男五女の子があり、三男・三条公輝(さんじょうきんてる)は公美の長男・実憲が早世したため三条家を継ぎました。
四男・実英(さねひで)は河鰭家の養子となり、昭和女子大の教授になるなど研究者の道を進んでいます。
公輝、実英は東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業しており、三条実美の息子たちは相当に偏差値が高かったようです。
やはりもともと名家だったこともあり、みなエリートな家系のようですね。
三条実美のまとめ
若き頃は尊王攘夷運動に命を燃やし、過激な行動もしばしば行いましたが、八月十八日の変で京都を追放されて山口、太宰府で幽閉生活を送るにつれ、おとなしく温厚な性格になったと言われています。
イギリス公使婦人が三条実美に会ったときの印象を「政治にはもう飽き飽きした上品な紳士」と語ったと言いますから、野心や野望は太宰府に置いてきてしまったのでしょう。
常に明治新政府の実質的No.1でありながら議定会議の主導権は常に岩倉具視に奪われ、内閣制度が発足した時には初代内閣総理大臣の有力候補でありながら伊藤博文に破れ、政治家としては不運で不遇でした。
「白豆」と陰口を叩かれるほどに色が白く、やや病的な印象もあったようですが、動乱の幕末、明治初頭に矢面にたって維新を成し遂げた精神力は並大抵のものではなかったはずです。
三条実美が持っていた公家として一流の家柄、尊皇思想、高い見識などが御輿(みこし)として担がれる人物・三条実美を作り上げ、明治新政府の象徴として前面に押し出される事になったのです。