河井継之助とは?墓や名言、子孫や林修が絶賛した理由について解説!

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幕末戊辰戦争の最中、武装中立を目指して長岡藩家老・河井継之助(かわいつぎのすけ)は新政府軍と談判に挑みます。しかし、彼の願いは叶わず長岡藩は北越戦争の道を選んで突き進みました。

結局、新政府軍の圧倒的武力に敵わず敗走中にこの世を去った河井継之助ですが、死後「長岡の蒼龍」「ラストサムライ」と評価する声と、長岡を荒廃させた張本人として非難される声と賛否が分かれる人物像となっています。

人となりも個性的でかなりの合理主義者だったようですが、残された河井継之助の名言などをリスペクトする人もいて、最近では「今でしょ!」の林修(はやしおさむ)先生がテレビで河井継之助を自分自身と重ねて称賛していました。

今回は河井継之助という人物の生い立ちなどを追いながら、子孫のその後やいくつかある墓の理由など、河井継之助の魅力に迫っていきたいと思います。

河井継之助の生い立ち

文政10年(1827年)長岡城下で代右衛門秋紀の長男として生まれます。

小さい時からやんちゃで気性も激しく負けず嫌い、従来武家の子は、剣術や馬術を学ぶために師匠について学ぶものですが、河井継之助も周りの子と同じように師匠につきました。

しかし師匠に従わず、ことごとく口答えして勝手に振る舞うので、最期は厄介払いされてしまいます。

人の言う事を聞かない気質は幼少からだったようです。

 

名臣を誓いエリートコースを歩みだす

河井継之助17歳の時に王陽明を祀り、名臣になることを誓います。

その後、23歳で藩主側近一族である側用人・梛野嘉兵衛(なぎのかへえ)の妹・すがと結婚しました。

また、同じ頃より河井継之助は小山良運(こやまぜんげん)や花輪馨之進(はなわけいのしん)、三間 正弘(みつままさひろ)、三島億二郎(みしまおくじろう)などの若手藩士らと「桶党」と呼ばれるグループを形成していきます。

藩主側近一族となった事、若手の気鋭の藩士との繋がりなどで次第に河井継之助は要職に就いていくことなり、改革推進派の筆頭としてエリートの道を歩みだします。

 

二度の遊学

河井継之助は26歳で江戸へ遊学に向かいます。

学や西洋砲術で知られた佐久間象山(さくましょうざん)などの門を叩き砲術の講義などを受けました。

時を同じくして河井継之助が江戸で学んでいる時に黒船が来航、幕府老中・海防掛でもあった藩主・牧野忠雅(まきのただまさ)に藩政改革の必要性を河井継之助は提言します。

これが採用されて初の藩政に参加することになりすぐさま河井継之助は帰郷、評定方随役を任命され人事刷新などを推進するも、上役の迫害を受けて2ヵ月で辞任、河井継之助の藩政デビューは苦い物となりました。

その後31歳になり2度目の遊学に備中松山藩(岡山県)へ行きます。この西国の地で初めての師匠と認める人物と出会うのです。

河井継之助は藩の危機的財政を救った改革者である山田方谷(やまだほうこく)の元で34歳まで学び長岡へ帰りました。

藩政の中心へと駆け上がり次々と要職につく

文久3年(1863年)激しく国の政局がぶつかり合う混迷の時、藩主・牧野忠恭(まきのただゆき)が京都所司代になると河井継之助も京都詰を命じられ上洛しました。

この時、河井継之助は藩主・牧野忠恭に京都所司代を辞めることを進言します。

その後、攘夷実行がされると藩主・牧野忠恭も辞任して一旦は江戸へもどりますが、再び藩主・牧野忠恭が老中に任命されると、河井継之助も公用人として江戸詰めとなります。

しかし、ここでも河井継之助は老中を辞任するように進言、辞任取りやめを説得に訪れた分家の笠間藩主・牧野貞直(まきのさだなお)を河井継之助は罵倒してしまい、謹慎処分を受けて帰藩させらされます。

 

地元長岡の藩政改革に着手

帰藩して後も、藩主・牧野忠恭の信頼厚く外様吟味役、郡奉行と次々と就任していき、河井継之助は藩政改革に着手していきます。

風紀粛正や農政改革、灌漑工事、兵制改革などを実施しました。

 

戊辰戦争の開始

慶応3年(1867年)、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が大政奉還を上奏、討幕派はすぐさま王政復古を発し旧幕府側を刺激し、鳥羽伏見で戦闘が開始され戊辰戦争に突入します。

大坂を警衛していた河井継之助は、急ぎ江戸へ戻り江戸藩邸、家宝などをすべて売却し運用して軍資金を増やし、その資金でアームストロング砲、ガトリング砲(当時日本に3台しかない内の1台)などの最新兵器を購入し長岡へ帰還したのです。

河井継之助は武装中立を目指し獨立特行を主張し、新政府軍との談判へ臨み、旧幕府軍と新政府軍の調停を行う事を申し出ました。

 

談判の決裂北越戦争へ

結局談判は決裂、新政府側より兵士と軍資金を提出するようにという命も河井継之助は黙殺します。

このような長岡藩の態度を黙認するわけにはいかず新政府側は、北越方面の平定に乗り出し北越戦争が開戦するのです。

 

北越戦争序盤

長岡藩は河井継之助が準備した近代兵器で序盤は新政府軍と互角に戦います。

しかし、圧倒的な兵力差で長岡藩は徐々に押され長岡城を新政府軍に奪われます。

 

領内一揆

長岡城が占拠され苦戦している中、河井継之助率いる長岡藩に追い打ちがかかります。それは、人夫調達の撤回と米の払下げを求めて領民が世直し一揆を始めたのです。

河井継之助はこの一揆の鎮圧に人員を割きました。その上人夫調達も困難となり戦況はますます悪化します。

 

八丁沖渡沼作戦と敗走

河井継之助は戦況を立て直し、八丁沖で奇襲作戦を決行し長岡城を奪還します。

この奇襲は成功したかと思われましたが、一時退いたものの新政府軍は体制を立て直し再度反撃してきました。

また、この奇襲作戦の途中に河井継之助は左足に被弾して重症を負ってしまいます。

3か月にも及ぶ戦闘で長岡城下は焼き尽くされ、新政府軍に反撃する余力を失った河井継之助率いる長岡藩は同盟している会津へ向けて敗走するのです。

 

河井継之助の最後

河井継之助の左足の傷は、きちんと治療を施さなかったことが原因で破傷風にかかっていました。

八十里峠を越えて会津藩塩沢村に入り様態が悪化、松本良順(まつもとりょうじゅん)の診察を受けるも快方には向かわず、自ら火葬の指示をして41年の生涯に幕を降ろしました。

河井継之助の墓

河井継之助の墓は現在3つ存在しています。

理由は、河井継之助は新政府軍に墓を暴かれる事を予見していて、下僕に自らの遺骨は松の木の下に一時埋葬させ、仮墓に砂を入れた遺骨を埋葬させたからです。

  1. 一時埋骨された会津若松市にある建福寺には埋骨遺跡として碑が残されています。
  2. 後に実際の遺骨は、河井継之助の遺族に渡され明治以降に長岡市にある代々牧野家菩提寺である浄土宗・栄凉寺 に納骨されました。
  3. 最後の地となった福島県只見塩沢村の医王寺に地元村民が細骨を葬った墓があります。

 

 

林修先生との関係

2015年の林修先生の番組で、林修先生の「今でしょ!」のルーツを話していました。

林先生は歴史の中で多数の偉人について学び、その中で河井継之助という人物を知ります。

河井継之助は、優秀だが人の言う事を聞かない=信念を曲げない偏屈な人物で、何事もハイハイと言われたままにやるのではなく、まず疑ってかかかり自分なりの知能、知識を使い考える人だと知り、「こういう生き方でいいんだ」と感銘を受けたと語りました。

また、沢山の本を読むのが良いのではなく、一つの本を何度も読んで精読するのが良いと河井継之助が残した言葉も、林先生自身と重なる所がありリスペクトしているとも言っています。

ただし、自らを信じ、行動する人である河井継之助であっても、運や時勢に抗えず実を結べなかったことを歴史から学び、自らの学習法と重ねて指導する学生に「今でしょ!」と、一番良いタイミングを掴むように促す言葉としてこの言葉が生まれたと説明しました。

 

名言

名言①

一忍可以支百勇一静可以制百動/一忍以って百勇を支うべく 一静以って百動を制すべし 

河井継之助博物館に自筆の書の掛け軸として展示されています。リーダーとしてあるべき姿で、己自身に言い聞かせるべく河井継之助の座右の銘だったようです。

元々は、中国の詩人・蘇老の「一忍可以支百憂 一静可以制百動」という格言からの引用で「憂」を「勇」に替えているのが特徴です。

 

名言②

八十里 こし抜け武士の 越す峠 

長い道のりを敗走し死期が迫り自嘲するかのような辞世の句を遺しました。

 

子孫

河井継之助と妻・すがの間には実子がいませんでした。

藩主から、河井継之助の遺族の扶養をまかされ河井継之助の母と妻を連れて北海道に渡り後に、黒田清隆(くろだきよたか)、クラーク博士と共に札幌農学校を起こして、2代目校長となった森源三(もりげんぞう)が、明治15年(1882年)河井家の再興が許さた時に、自身の次男・森茂樹(もりしげき)を河井家の養子として後継させています。

 

現在確認できる子孫

根岸 千代子(ねぎしちよこ)氏。アメリカ在住・著書「子孫が語る河井継之助」。